昨日号は「海援隊」の約規を中心に坂本竜馬のことを考えてみた。
その流れを汲んで、今日は松下村塾の吉田松陰を考えよう。
嘉永4年(1851年)、藩の許可を待たずに友人との東北旅行を決行して謹慎させられ、3年後の安政元年には、ペリーが和親条約を迫って再航した時、密航を企て失敗。今度は入獄させられている。
最初の罪は、藩法を破ってでも友人との約束を守るという松陰の人間性による行動だろう。
二度目の罪は、日本国も今のままではお隣・清国(今の中国)のようにアヘン戦争で欧米列強にあっさりやれれるという危機感によるものだ。鎖国という国法を犯してでも米国の船に乗って、新しい知識や技術を学びに行こうという並々ならぬ決心があったろう。
だが松陰の思いとは裏腹にいずれも失敗する。ついに囚人檻に閉じ込められた松陰。彼を慰問した米国仕官に向かって松陰は筆談でこう述べている。
「英雄もその志を失えば、その行為は悪漢盗賊とみなされる。我等は人前で逮捕され、しばられ、ここで数日間おしこめられている。この村の名主以下はわれわれを軽侮し、悪罵を投げ、虐待することはなはだしい。しかしどう反省しても非難されるべきようなことは何ひとつない。いまこそ、真の英雄かどうかを知るべきときである。五大州をあまねく歩かんとする我が志は、食すことに不自由であり、休むことも不可能であり、また眠ることも不可能である。しかし、この檻にあっておのれの運命に泣けば、ひとは愚者だとおもうだろう。笑えば悪漢のように見えるだろう。どういう態度もとれない。だから私はただ、沈黙をまもっているだけである」
(司馬遼太郎著『世に棲む日々 二巻』より)
この当時、長州人をのぞけば、松陰を単なる罪人と見る人が多かった。だが、意外にも黒船側のペリー以下の仕官や記録官などのなかに松陰のスゴサを感じ取ったものが少なくない。
当時の新聞『センチュリー』紙でもこう報道している。
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アメリカのフリーゲート艦ミシシッピイ号が江戸湾に到着した。とある日の夕方、きりっとした身なりの気高き風貌の日本の青年が、ちっぽけな小舟を漕いで、同艦に乗り込んで来た。アメリカで勉学をしたい、船に乗せて連れて行ってほしい、これはたっての願いである、ということを、青年は非常に丁寧に懇願した。
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また、『ペリー日本遠征記』の著者ホークスは、松陰の密航未遂事件をこう記録している。
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この事件は、厳しい国法を犯し、知識をふやすために生命まで賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、興味深いことであった。日本人は確かに探究好きな国民で、道徳的・知的能力を増大させる機会は、これを進んで迎えたものである。この不幸な二人の行動は、同国人に特有のものだと信じられる。また、日本人の激しい好奇心をこれほどよく示すものは他にはあり得ない。日本人のこの気質を考えると、その興味ある国の将来には、何と夢にあふれた広野が、さらに付言すれば、何と希望に満ちた期待が開けていることか!」
冒険小説『宝島』の作者・スティーブンソンは、松陰の弟子から聞いたエピソードなどをもとに、「YOSHIDA-TORAJIRO」という小論文を残している。ちなみにYOSHIDA-TORAJIROとは、吉田松陰の別名・吉田寅次郎のことであり、論文の結びにこうある。
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一言つけ加えておかねばならない。これは英雄的な一個人の話であるとともに、ある英雄的な一国民の話だということを見損じないでほしいと願うからである。吉田のことを脳裏に刻み込むだけでは十分ではない。あの平侍のことも、日下部のことも、また、熱心さのあまり計画を漏らした長州の18歳の少年ノムラ(野村和作)のことも忘れてはならない。このような広大な志を抱いた人々と同時代に生きてきたことは、歓ばしいことである」
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「YOSHIDA-TORAJIRO」(英文)
http://homepage1.nifty.com/kybs/datastk/syoine02.html