平成のベンチャービジネスを語るうえで「IT」、「インターネット」というキーワードは不可欠だ。今を生きる我々にとって、そんなこと当たり前だ、という声が聞こえてきそうだが、百年後の人たちが、平成時代を振りかえると「へぇ、ITとインターネットがビジネスチャンスだったのだね」となっているはずだ。そのころの起業家にとっては、すでにITもインターネットもビジネスチャンスではなくなっているに違いない。
その証拠に、今から百年前を振りかえってみよう。つまり、明治後期において、何がビジネスチャンスだったか。それを即答できる人は少ないはず。ひょっとしたら「そんな頃に起業家とかベンチャービジネスってあったの?」なんて思えてしまうほどだ。
だが、れっきとしたベンチャー起業家たちが当時もたくさんいた。
百年ほど前の明治人にとって、ビジネスチャンスのキーワードは、「鉄道と電力」だ。
関西で鉄道事業を成功させ、後に電力事業も手がけた小林一三しかり。
九州・博多で電気軌道会社を創設し、福沢桃助の要請で電力事業に進出した松永安左エ門しかり。
今日の「がんばれ社長!」の主人公・根津嘉一郎(根津財閥の創始者)も、「鉄道と電力」に生涯を捧げた人物だ。
郷里である甲州(山梨県)の先輩・若尾逸平が、野望に燃える嘉一郎の存在を知り、株式投資を薦めながらこういった。
「まず、カネをつくれ。将来を見るにこれからは『乗り物』と『灯り』だ」
「乗り物」とは鉄道のことであり、「灯り」とは電力のことだ。投資すべきは、この二つの分野だと助言された根津は、まず東京電灯(現・東京電力)株を買い集め始める。
後年になって根津は、「ボロ買いいちろう」と世間から揶揄されるほど、ボロ会社を買いまくった。しかも買うだけではない。そのボロ会社を優良会社に変身させていく再建の名人にもなっていったのだ。
根津が手がけた会社で代表的なところは、東武鉄道、日本第一麦酒(今のアサヒビール、サッポロビールの前身)、富国徴兵保険(現・フコク生命)、館林製粉所(現・日清製粉)、高野登山鉄道(現・南海電鉄)などがある。
再建の秘訣は、「内に消極、外に積極」の戦略である。別の表現をするならば、“入るを計り、出るを制す”のだ。
言うは易く行うは難し。入るを計るには積極性が、出るを制すのは消極性が必要なのだが、一人の人間でこの両方を使い分けるのは簡単なことではない。
まず「外に積極」、これは比較的容易にできる。とくに若手のベンチャー起業家は、この積極性のみがウリになるほどだ。顧客作りのための外部にむけた活動は、積極性がなければ始まらない。
つぎに「内に消極」
これも容易だ。経費節減や堅実経営、無借金経営など、ディフェンシブな経営に徹している会社は少なくない。
そしてこの両方を一人の人間が同時に行うことができれば、会社経営の成功確率は飛躍的に高まるはずだ。
根津の場合、ある会社の再建を依頼されると、まずその会社に出向いてどこに無駄があるか、どこに不正があるか、どこに不合理があるかを見つけ出し、それを退治することが一番近道であると考えた。
それができたところで、はじめて外に向かって積極的に拡張するというのが根津嘉一郎流の「内に消極、外に積極」という経営哲学である。
その代表例が明治37年ころの東武鉄道再建劇だ。当時、東武鉄道は深刻な経営難に陥っていた。世間から「東武カラヒキ会社」などと冷やかされる始末だったという。
そんなとき、この会社の再建要請を受けた根津は、この企業が持つ潜在的な将来性をすぐに見抜いた。
大きな飛躍が期待できる会社なのだが、その前に当時の金額で250万円という巨額な資金が必要になる。無配当会社ゆえ、その資金捻出が難しい。
そこで嘉一郎はまず、大規模なリストラに着手した。毎月60円支払っていた本社オフィス、それ以外に千住にも出張所を置いていた。
嘉一郎はこの両方を別の場所の車庫に一本化し、月6円50銭で借りて、本社機能を集約させたというのだ。
それと同時に浮いた経費で借入金の返済を積極的に行った。こうした「内に消極」の改革の成果が現れて、東武鉄道の信用が徐々に回復していった。
次に「外に積極」作戦として、嘉一郎は当時としては大がかりな工事であった利根川への鉄道敷設や、栃木県への路線延長に着手。そのほかにも多くの路線を延ばし、旅客獲得に成功していった。ボロ会社だった東武は、やがて優良企業の仲間入りを果たしたのである。
消極と積極、緻密と大胆、悪魔と天使、など相反する側面をTPOに応じて巧みに使いわけた根津嘉一郎流経営なのだ。
だからこそ、業種がちがってもあらゆる企業を再建できたのだろう。
根津の生来の気質実は強気一辺倒、大胆一辺倒の人物だったという。
だが、経営者として大成するために自分で自分を作りかえたのが根津の面目躍如というところか。
「内に消極、外に積極」を覚えておこう。