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本田と盛田

日本人の経営者で、松下さん、本田さん、盛田さんと井深さんの名を知らない人はまずいないだろう。いずれも裸一貫から世界の大企業に育てあげた立志伝中の経営者として名高い。だが実際問題、私たちはどこまで彼らのことを知っているだろうか?

今年2月に行われたドリームゲートのイベントで、上場企業のある若い経営者がこう語っていたのを思い出す。

「僕らが子供のころ、『社長』というとオジサンという印象で、少なくともカッコイイという対象ではなかった。それを自分たちで変えていきたい。社長ってカッコイイんだと若い人に思ってもらうことが起業家を増やすことになると思う」

私はこの経営者を評価しているのだが、残念ながらこの発言は認識不足だと思う。

生き様がカッコイイだけでなくファッションもライフスタイルも若手のあこがれになるようなカッコイイ社長って昔から沢山いるのだ、ということを知っておこう。

一例として、文藝春秋 Gold Version 5月号ビジネス臨時増刊号の特集に出てくる本田宗一郎と盛田昭夫の特集記事や写真を見ればそれが一目瞭然だろう。
今日は、この雑誌の中から特に印象に残った箇所をご紹介してみたいと思う。

まず本田さん。彼は意外に遅咲きなのだ。

明治39年11月生まれで、尋常高等小学校卒業後、東京湯島の自動車修理工場・アート商会に就職。郷里・浜松に戻ってアート商会浜松支店の看板を掲げて起業したのが20才。
26才になった昭和9年、エンジン開発に興味をもちピストンリングの研究を開始。終戦後に一年間休業したのち、昭和21年、浜松に本田技術研究所を設立し、自転車用の補助エンジン開発に取り組みだしたときにはすでに38才になっていた。
昭和23年、資本金100万円をもとに本田技研工業株式会社を設立し社長になったのが40才、このとき社員数は20数名だったという。一年後に藤沢武夫と運命の出会いを果たし、常務取締役として迎え入れている。

その後、東京に本社移転したのが昭和27年(44才)。
二輪レースに出場宣言し、株式の店頭公開も果たしたが、会社が経営危機に陥り、藤沢が金策に飛び回ったころが昭和29年(46才)。

「F1レースに出る」と宣言し世間をあっと驚かせたのが東京五輪のあった昭和39年(56才)。翌年、メキシコGPで見事優勝を果たしている。本田と藤沢ともにトップを退任し、顧問に退いたのが昭和48年(65才)。

同社のサイトを見ると、会社の歩みと世評が対比してあって歴史を感じる。

本田技研工業株式会社 http://www.honda.co.jp/timeline/

ソニーの盛田さんはそれほど遅咲きではなく、若いころから着々と、かつ猛スピードでキャリアを積み上げているのがこの雑誌から見て取れる。
印象的だったのは、次の箇所。

昭和41年5月、盛田が45才のあるとき。実はこの年のソニーの年商は400億円なのだが、その後10年で4,000億円になる。当然、このとき盛田はまだそれを知るよしもない。
ただ盛田が入社試験をやりながら感じていたのは、人を見抜くことや評価することの難しさだったという。

盛田とともにソニーを立ち上げた井深さんがその昔、東芝の入社試験に落ちているように、自分も入社試験で将来の社長を落としてしまっているのではないかと心配していたのだ。

そんな矢先、ある係長に向かって「君の部下は何人いるの?」と聞いたところ、「大卒何名、高卒何名、女子何名」という答えが返ってきて盛田は驚いたという。創業以来、社員の異動や評価で学歴を考えたことなど一度もないのに、現場では学歴を尊重する人が出はじめ、早くも大企業病が出ているのを感じた。

盛田はさっそく『学歴無用論』(文藝春秋刊)を発刊し、社内にあった社員の履歴書を全部焼いてしまった。以後、同社では人事カードなどに一切学歴が記入されることはないというし、社員同士の会話でも学歴の話題がでることは、まずないそうだ。

50代半ばでテニスを始め、60才でスキーに挑戦、70近くになってスキューバダイビングを始めている。成功し余裕ができたからそうしているのではない。58才で雑誌「ポパイ」を愛読しているような心の若さがあるからこそ「ウォークマン」を出せたのだと思う。

盛田は、「好奇心がなくなったら人間はおしまいだ」が口ぐせで、年令によって自分の行動を自分で制約するのが嫌だったに違いない。このスピリッツが大切なのだろう。

この二人からあなたは何をお感じになっただろうか?