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悪いのは誰か?

部下が思うように成長しないのは誰のせいだろう?

部下の能力や意欲が足りないのか?それともあなたの指導方法に問題があるのか。
ひょっとして、甘やかし過ぎてはいないか?
それとは逆に、放置し過ぎていないか?

やらせるべきことはやらせる。要求すべきことは遠慮せず要求する。結果が出るまで要求する。また、ダメなものはダメ、理屈ではなくダメなものはダメなのだ。

但し、リーダーであるあなたがぬくぬくとコタツに入ったまま口だけで指示し、部下を寒風ふきすさぶ極寒の地へ放り込むような指導力では情けない。あなたも部下と同行して「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやる」ことが大事なのが言うまでもない。
部下の達成を支援することと、部下の未達成を同じように反省するのが上司の仕事だ。

これに関連して、読者の朴さんから次のような情報を頂戴した。

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以前にメルマガで紹介された会津藩の「什の掟」に関連した本を私はバイブルのようにして持っています。この本の162Pに次のようなくだりがあるのでご紹介します。


正しいことは正しい、悪いことは悪いという物差しを子供に持たせることは親の責務である。親や近隣の人に挨拶する、目上の人に礼儀正しくする。いわゆる躾と言われるものは特にそうだ。

辛く苦しいことでも、とにかくやらせる。時には叩くこともする。焼け火箸と同じことで痛さで分からせることは最も心に残る。言葉だけで言っても、それを実感出来ないからだ。実感出来ないものは知識として記憶できても、行動や知恵にはならない。ただ言うまでもないことだが、親や大人が子供を自分の感情のはけ口にしているような場合は、何の教育にもならない。むしろ何をされようと大人の言うことなど聞くものかと思うようになり、逆効果である。

それにまつわる、ある親子の話。子供が仏壇においてあったお金を盗んだ。それに気付いた父親は「ならぬことはならぬ、ならぬと言え」に従い、子供に厳しい罰を与えた。季節は真冬。庭には雪が積もっている。息子を庭の井戸端に連れていくと「お前は人としていけないことをした。よって戒めとして、この井戸の水を十杯かけてやる。しかし、そんな息子に育てたのは親であるわしの責任でもある。お前に水をかぶせる前にまずわしが罰をうける」と言うやいなや、氷のように冷たい井戸水を桶で、頭から十杯かぶった。

それを呆然と見ていた息子は、途中から泣き出し自分の非を詫び責めた。父親は自分がかぶり終わると「次はおまえの番じゃ」と言って、桶にたっぷりの水を続けて三杯、息子の頭から浴びせた。四杯目からは、形ばかりの水の量。そして五杯でやめた。

相手を厳しく叱るとは、同時に自分自身のあり方への深い内省を伴わなくてはならない。「子供に言う前に、親として叱るだけの事を自分が出来ているのか。自分のあり方はどうだったのか」そこには自分に向ける厳しさが不可欠である。

そうしたものがあってこそ、初めて相手に深く伝わる。単純に厳しく叱ることが愛情だということを言う人がいるが、そこのところをよく気をつけなければならない。相手が、愛情から出た行為であることを認め、受け入れてくれなければ何の意味もない。

「二千日回峰行者 酒井雄哉大阿闍梨・超人の教え」より
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4120030377/


私自身、いつも戒めとしています。文中の親子を社員と社長と置き換えてもためになりますね。

朴寅鎬 <park@ispace.co.jp> 
株式会社インタースペースプランニング http://www.ispace.co.jp/
・ブログ http://blog.livedoor.jp/tigerpark/

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朴さん、ありがとうございました。

・「がんばれ社長!」『什の掟』のバックナンバー
http://www.e-comon.co.jp/magazine_show.php?magid=1125

指導者としてのあり方を再考してみよう。出来ないのは部下のせいなのか、それともあなたのせいか。