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もう一人の白虎隊

江戸時代、会津藩(今の福島県)では藩校「日新館」に入学する前の6才から9才までの子供を地域ごとに組織し、武士としての心構えを互いに学びあうシステムがあった。
そのときの規則が「什の掟(じゅうのおきて)」である。その内容は、

一.年長者の言うことに背いてはなりませねぬ
二.年長者にお辞儀をしなければなりませぬ
三.虚言(うそ)を言うことはなりませぬ
四.卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五.弱い者をいぢめてはなりませぬ
六.戸外で物を食べてはなりませぬ
七.戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ

「ならぬことはならぬ」としめくくっている。ダメなものはダメなんだということだ。

これらは要するに、「人として恥を知りましょう」ということではないだろうか。
中国の孟子は、「人は羞恥心がなければならない。羞恥心は人間にとって重大な徳目である。もし羞恥心がないことを恥ずかしく思うようになれば、辱められることはない」と語っている。
会津の「什の掟」も羞恥心を定義したもののように思えるのだ。

電車の中での携帯電話やお化粧。コンビニの前での座り食い。公園や路上での男女の抱擁や接吻。
彼らに注意しようものなら、「私の自由でしょう。それに誰にも迷惑かけてないじゃん」と言うが、実は迷惑をかけているのだ。
運転中の携帯電話を取り締まるだけでなく、これらの行為も公然わいせつ罪とか何かで取り締まってほしいものだ。眉をひそめるだけでなく、国や学校の問題として「ならぬものはならぬ」と羞恥心を教えていかねばならぬはずだ。

会津藩に話は戻す。

白虎隊の物語は多くの方がご存知だと思うのでここでは割愛。実は白虎隊と同世代の若者で郡長正(こおりながまさ)という若者がいる。
彼の行為は、「もう一人の白虎隊」として今なお語り継がれているのだが、あまり知られていないようだ。
わずか16才で自らの命を絶ったせい惨な最期は、「ならぬものはならぬ」という教えに殉じた武士の引き際だ。ご紹介しよう。

郡長正(安政3年~明治4年)
会津藩家老、萱野権兵衛の次男。明治のはじめ豊津小笠原藩(福岡県)に留学した。育ち盛り、食べ盛りの長正は、ある日郷愁を覚えて母に手紙を書き送った。
「稽古や野外訓練が終わったあとなど、空腹で辛いことがあるので、会津の柿を送って下さい」

その手紙を受け取ったのは、さすがに武士の母。

「事もあろうに空腹を訴え、柿を送れとは何ごとですか。会津武士の精神はどこへやったのですか」と戒めたのだ。愛する息子への思いやりは、甘やかすことではなくたしなめることだ。
だが長正の母は、まさかこの手紙が息子を死へおいやるとは露知らない。

長正は母からのこの手紙を心の支えとして大切に持ち歩いていた。
だが、あるとき不運にも、これを落としてしまう。それを学友に拾われ、皆の前で読まれてしまったのだ。
小笠原藩士の学友たちに会津武士を辱められるほど恥ずかしく悔しいことはない。
悩んだあげく、長正は会津武士の屈辱をはらそうと藩対抗剣道大会で完勝し、その後切腹して果てた。時に16歳。
「ならぬものはならぬ」という恥の精神を貫いたのだ。

無病息災と不老長寿を願うばかりが幸せではなく、思想や志操に殉ずるためには、いつでも死と背中合わせに生きる生き方も人として大切なのではないかと思う。「もう一人の白虎隊」と言われる長正の生き様から何かを学びたい。