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没頭力第一の人

ひとたび何かに没頭すると周囲のことがまったく気にならなくなる人がいる。没頭力とでもいうべき素晴らしい集中力である。没頭力の強い例話はたくさんあるが、今日ご紹介するのは、その筆頭かもしれない。なにしろ、自分が外科手術を受けていることすら知らずに人の話に聞き入っていた人がいるのだ。しかも麻酔を受けずに、である。

その人は、釈迦の従弟(いとこ)の阿難(あなん、アーナンダ)である。阿難はいつも釈迦の近くにいて教えを身近なところで「多く聞いた」から、「多聞第一」(たもん だいいち)の人と言われた。ボイスレコーダーもメモ用紙もない時代にあって釈迦の説いた教えをすべて記憶し、のちにつくられた『大蔵経』というぶ厚い教典はすべて阿難の記憶力のたまものと言われている。

その阿難は、類い稀なる没頭力の人だった。あるとき、背中にできた腫れ物がひどく膿んだ。痛さにたえられないほどだったので、見かねた釈迦が医師を呼んで手術させることにした。医師は阿難の腫れ物をみて、重症であることを悟った。少しでも阿難の苦しみを和らげるために、釈迦の説法中に外科手術することにした。そうすれば、説法に没頭する阿難ゆえに、少しは痛みがやわらぐかもしれないという配慮だった。

いよいよ釈迦の説法が始まった。いつものように目を皿のようにして釈迦を見つめながら話に聞き入る阿難。「いまだ!」と医師は阿難の腫れ物にメスを入れた。かなりの重症で患部の化膿はひどく根が深かった。かなり奥深くまでメスを入れ、切開した。その後、膿をしぼり出し、膏薬をはって手術を終えた。

「手術中の痛みはどうでしたか?」説法が終わって医師は阿難に聞いた。すると阿難はこう言った。「それは何のことかね。私にはさっぱりわからないが」

「説法中にあなたの背中の腫れ物を切開したのですよ」と医師が言うと「そうでしたか。それはありがとう。私は本当になにも知らなかった」と阿難は答えた。そして自分の背中に手を回し、「おかげさまで痛みが取れたようだ」と阿難。

そのやりとりを聞いていた釈迦に向かって阿難はこんなことも言った。「世尊よ、私はお教えを聞いております間は、たとえこの身がゴマのように打ち砕かれましょうとも、少しも痛みを覚えないだろうと思います」

すさまじい阿難の没頭力である。「これぐらいの集中力で社長の話を聞きなさい」と部下に言ってみてはどうだろう。

案外部下は、「それぐらい没頭できる話を聞かせてください」とあなたに言うかもしれない。

没頭する力もすごいし、没頭させる力もすごい、と解釈すべきか。

★参考:『教訓例話辞典』(有原末吉 編、東京堂出版)