先週、半日人間ドックに行った。コースの最後は、対面によるコンサルティングだったが、日ごろの運動を奨励するパンフレットを手渡された。運動のメリットが箇条書きにされているのだが、そのなかに「気が晴れる」という項目があった。
運動することによって
・血流がよくなる
・カロリー消費が進んで運動不足が解消される
・筋肉が付く
などの中にあって、「気が晴れる」というこの箇所だけ、なんだか非科学的で違和感を覚えたものだ。ところが、どうやら「気が晴れる」という表現の裏側には、とても大切な生理的メカニズムが潜んでいるようなのだ。
ところで、
「モノの充足からココロの充足の時代へ」と言われ始めてから久しい。日本国中でモノが満ち足り、人々はモノ以外の何かを欲するようになった。言葉をかえれば、物欲や金銭欲によって自分や周囲のモティベーションを高める方法には限界があるということに、多くの日本人は気づいているのだ。つまり、唯物的(モノ重視)になると、人間は退屈しやすくなるようにできているのだ。
そのことを東洋思想家の安岡正篤師は、「退屈の害」として次のように述べている。(『心に響く言葉』(安岡正篤著 DCS刊)
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「退屈せずに仕事に身心を打ち込もう」我々は、この退屈するということが一番いかん。人間は唯物的になるほど退屈しやすくなる。自分の満足を外物によって得ようという、これはすぐに行き詰まる。早い話が、人間、豚みたいに食欲の権化になると、むやみに物を食う。すぐ満腹、いやになるね。しかもこれは、非常に有害である。
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物欲や食欲に重きをおいているうちは、仕事がうまくいかない可能性がある。名古屋のある社長が、「業績と体重は反比例する」と言っていたが、どうやらその通りなのかもしれない。
閑話休題
もう少し、安岡師の話を引用してみたい。
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なんでもそうで、唯物的な、肉欲的な、あるいは我欲的なものほど、すぐに倦いてします。いやになってしまう、退屈してしまう。退屈するくらい人間にとって有害なものはない。(中略)打ち込んで働くことによるエネルギーの喪失よりも、退屈するエネルギーの方がより多く消費されるそうだ。しかもその(退屈な)エネルギーの消費は、質的に非常に有害だそうだ。いわゆる気を腐らしてしまう。
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従って師は、精神的、心霊的な欲望というものを持てと推奨する。精神生活を持てという。なぜなら、これは無限であるがゆえになかなか充たされない。それが良いのだと。
精神生活を送っている人間とそうでない人間は見抜くことができるとも師は言う。それは、“喜怒哀楽”の仕方に現れるそうだ。
喜怒哀楽が立派であるかどうかが人間の勝負なのだ。人間ができてくると、喜びの対象がかわり、怒りの対象がかわり、哀しみの対象がかわり、楽しみの対象がかわるのだと。
人のエネルギー、つまり“精”は一定である。その“精”を物欲や食欲という方面に振り向けすぎると、相対的に精神生活の分野がおろそかになる。そうならないためにも、私たちは、書を読み、人の教えを聞かねばならぬ、と説く。
退屈し、小さくまとまってしまった経営者をお見受けすることがあるが、それは、物欲や食欲が満ち足りたからに他ならない。
運動不足を解消するために運動によって汗を流す。すると気が晴れて戦う気持ちが生まれる。それと同じように、読書によって精神生活の退屈を解消してやり、心霊的に戦うものを持ち続けよう。