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伝説のツーショット

●高橋竹山(たかはしちくざん)1910~1998。津軽三味線を全国に知らしめた大立役者だ。

明治43年(1910)6月、青森県東津軽郡で生まれる。本名定蔵。幼いころ麻疹をこじらせ、半ば失明する。近在のボサマ(戸田重次郎)の内弟子となり三味線と唄を習い、東北から北海道を門付けして歩いた。門付けとは、民家の前に立って三味線を弾き語りすることだ。

●昭和50年、第9回吉川英治文化賞、第12回点字毎日文化賞を受賞、昭和58年には勲4等瑞宝章を受ける。東京渋谷にあった、「ジァンジァン」でのライブは多くの若者の心を捕らえて、全国に竹山の津軽三味線ブームをわき起こした。今は、「二代目・高橋竹山」をはじめ多くの門下生がその意思を継ぎ、活動している。


●その竹山が生前よく語った言葉が、「わたすは(私は)名人と言われるより、上手でいたい。」

先週ご紹介した安岡正篤師の言葉、「偉くなろうと思ったら偉くなるな。名士になるまでが名士で、名士になったらただの迷士だ。だから人間はほんとうに有力になろうと思ったら、なるべく無名でおらなければいかん。」と相通ずる話ではないか。


●その竹山にエピソードは多いが、興味深いものを一つご紹介しよう。

・・・第二次大戦が終わって、盲目の竹山が青森の駅前で座り込んで演奏をし、投げ銭で飢えをしのいでいた頃のこと。

ふだんの数倍のお金を握らせてくれた女性がいたと言う。

「あなたは本当にいい腕をしていらっしゃる。きっと名を残す三味線弾きになるから、これからも精進して下さい。」といいながらお金を握らせ、その握った手があまりにも冷たいので、自分の胸に滑らせて、その手を暖めた。

「柔らかいでしょ?」

その声と胸の柔らかさは「一生忘れない」と後年の竹山は語っていた。

数十年経って、その女性が実は同じ青森県人の淡谷のり子であることが分かったというではないか。
・・・

●なんたる豪華なツーショット。いや、待てよ。

ツーショットが豪華かどうかを決めるのは後年のことであって、ツーショットの瞬間は、二人とも真剣に生きている者同士にすぎないことが多い。

たとえば、
・信長と秀吉のツーショット
・松陰と晋作のツーショット
・西郷と大久保のツーショット
・王と長島のツーショット

これらの最初の出会いは、きっとふつうの出会いだったに違いない。それが“伝説のツーショット”となったのは、後年の彼らの業績による。

●あなたの身の回りに、そうした伝説を沢山つくってゆこうではないか。