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死ぬほどうなぎを食べてみたい

「弟はうなぎ嫌い。それも筋金入りの大嫌い」と思っていたようだが、実は弟はうなぎが大好物であることを随分あとになって知った。姉の名は美濃部 美津子、弟は美濃部 強次(みのべ きょうじ)。

ピンと来ない方も多かろうが、弟の芸名は古今亭志ん朝。落語の名人とうたわれた古今亭志ん生(五代目)の次男であり、志ん朝もまた名人であった。

気っぷのいい江戸っ子ことばと何ともいえない艶っぽさで女性からも男性からも愛された志ん朝だが、彼がまだ朝太と名乗っていた二ツ目の頃のことである。身の回りに不運が続いた。ある日、信心深い母りんが谷中の寺に家族を連れて行った。その寺の菩薩(ぼさつ)のお使いがうなぎだったため、そのとき以来、志ん朝は好物のうなぎをすっぱりと断った。

何年かたったある日、家族でうなぎ料理を頼んだ。だが志ん朝ひとり手を伸ばさない。それをみて、姉は志ん朝がうなぎ嫌いだと思い込んでしまったようだが、それはほかの家族も同様だったろう。おそらく、自分の芸の上達も願ってのうなぎ断ちだったに違いない。志ん朝はその後、みるみる頭角を表し、あっという間に真打ちに上りつめた。

(立川)談志、(三遊亭)圓楽、(春風亭)柳朝と並んで古今亭志ん朝は「江戸落語四天王」と呼ばれた。ときには、「東の志ん朝、西の枝雀」と称されることもあった。

「決断」は、断つものを決めるから「決断」というそうだが、志ん朝にとって、大好物のうなぎを断つことが決断だったのだ。

その志ん朝が惜しまれながらわずか 61歳の若さでこの世を去った。肝臓ガンだった。こよなく酒を愛した。亡くなるひと月前に久米宏の「ニュースステーション」に出た。「最後の晩餐」というコーナーだった。

久米に聞かれて志ん朝は日本酒を傾けながらこう言った。

「死ぬほどうなぎを食べてみたい」

それは人生のオチだった。翌月、志ん朝がテレビに出たときは、NHKの追悼番組だった。わずかひと月で死ぬほどうなぎを食べる機会があっただろうか。