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ある子煩悩

ある会合のあと旧知の女性社長が歩みよってこられた。「武沢さん、ちょっと聞いてくださいよ」という。「はい、なんでしょう?」とうかがってみると、それはこんな事だった。

その社長のご主人は今年の春、長年つとめた会社を退職された。そして自宅の部屋を改造し、ものものしい数のパソコンやディスプレイを入れてトレーディングルームにした。つまり、専業投資家としてデビューしたわけだ。おもに日本株とアメリカ株を投資の対象とし、毎日かなりのお金を動かしている、という。

「それで生活できるなんてうらやましいというか、すごいですな。それで?」

女性社長は口をとがらせ不服そうな表情をつくって「すごくなんかないんです。毎日損してるみたいですから。それよりも、あれだけ子煩悩だった主人が、いまではすっかり株煩悩、お金煩悩になってしまって、子供との週末の約束をドタキャンするんですよ。夏休み最後の土曜日にプールへ行こうと言っていたのに・・・。株の研究をしたいみたいです。子供のためなら何でもする主人だったのに、ありえない。主人にどう接すればよいのでしょう」

武沢:う~ん、なるほど。
女性社長:私も深刻なわけじゃないけど、心配なんです
武:わかります。きっと大丈夫でしょ、今は株のトレードに夢中になっているだけで、そのうち元のご主人に戻るはずですよ
女:もし元に戻らなかったらどうします?
武:それはそれでいいじゃないですか。もうしばら放置されたらどうでしょう
女:放置、ですか
武:あなたはご主人にどうなってほしいのですか?
女:もとの主人、子煩悩だった主人にもどってほしいな

「子煩悩」だったご主人が「株煩悩」に変身した、というお話しなのだが、一時的に煩悩の対象が変わることはよくある。

そもそも私たちが「子煩悩」という言葉をつかうときは、通常、好意的な意味で使うことが多い。たとえば、
・友人の誘いをことわってでも家に帰り、子供と一緒に風呂に入る
・子供の願いを聞いてあげるためには犠牲を惜しまない
・職場でいつも子供の話をしたがる
などの行為が子煩悩といわれるわけだが、悪意で子煩悩という言葉を使う人はいない。

「子煩悩」はあるのに「親煩悩」「妻(主人)煩悩」「友煩悩」とは言わないことからみても、人間にとって強い煩悩の対象は我が子である、というわけなのだろう。

ブッダは、だからこそ危険なのが子供だと教えている。

「子を欲するなかれ」(『スッタニパータ』(三五))とブッダが言う。さらに「朋友(親友)も」と。

子供や親友は愛すべき存在であるがゆえにそれを求めることは修行のためによくない、というわけだ。

『スッタニパータ』はブッダのことばを集めた初期の仏教教典だが、こんな詩句もある。

・・・悪魔パーピマンがいった。
「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執着するもとのものは喜びである。執着するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない」

師は答えた
「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない」(『スッタニパータ』三三、三四)

人としての喜びや楽しみの対象に私たちは愛情や期待や希望をもつ。それがやがて執着を生み、その執着が憂いや苦しみにかわる。

子が喜びであり、楽しみであれば子煩悩となり、いつしか苦しみに変わる。子供がお金や友にかわってもそれは同じだ。

誰かに注ぐ愛情や期待、何かに注ぐ希望や執念などは、一方的にすばらしいもの、賛美されるべきものとはかぎらないのだ。ブッダ自身、国王の息子という立場を捨て、富も名誉も妻子も捨てて出家した。日本でも西行法師が出家するとき、追いかけてくる我が子(可愛がっていた幼い娘)を蹴飛ばして追い返した。

執着を断つには、ときには強い決心を必要とすることもある。

さて、その女性社長とご主人がこれからどうなっていかれるのか心配でもあり楽しみでもある。