松陰さんのことを書いていたら、ものすごくうれしい出来事があった。絵はがきを頂戴したのだ。現存する松下村塾を撮影したもので、「大切にしていたはがき、お送りします。」と添えてある。こうしたはがきを保管しておられるところをみると、贈って下さったFさんご自身が、大の松陰ファンであるに違いない。手放したくないものを手放す、これも志ではないだろうか。
さて、今日は松陰さんについての最終稿。
松本村の塾ということで単純に「松下村塾」と名付けられた。もちろん、藩校でもなければ寺小屋でもない。家学教授のために門人をとることを許され、わずか1年半の教育期間に過ぎなかった松陰の塾から、幕末維新から明治にかけて大活躍する逸材が巣立っている。
高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、前原一誠、品川弥二郎、
野村靖、山田顕義、伊藤博文、山形有朋・・・、70余名
山口県教育会編纂の「吉田松陰」から一部を引用してみたい。
・・・
明治維新の前夜に若い情念をぶっつけて至誠をつらぬいた松陰の教育は、門弟たちの魂をゆりうごかした。
(中略)
塾には厳正な規制をさだめず、生徒を率いるというよりも相互に親しみ助け合い、尊敬信頼し、たがいに魂のとびらをひらいて交わらせるという人間教育であった。魂と魂とが通じ合う、士分の者も足軽の子も平民の子も差別のない教育を行い、学問をただ学問として学んだりあるいは仕官の道として学ぶのではなく、時代につながり、生きた学問を実践したのである。
かくすれば、
かくなるものと知りながら、
已むに已まれぬ大和魂
自分の信念を弟子たちの前にすべて投げだし、弟子と共に真理を探究する熱狂的な指導精神が、若い後進の魂をゆさぶったのである。
・・・
引用終わり。
松下村塾には基本テキストやレッスンプログラムというものは存在しない。当然、休校日や授業時間というものもない。弟子の適性を見抜き、個人ごとに異なる書物や課題を与えていたという。
塾には聯(れん)とよばれる、孟宗竹に文字を彫ったものが掛けられている。松陰の文字を久保五郎左衛門が彫ったものだ。
万巻の書を読むに非ざるよりは、
寧んぞ千秋の人たるを得ん。
一己の労を軽んずるに非ざるよりは、
寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。
【武沢意訳】
万巻の書を読まないで立派な人物になることは出来ない。
労を惜しんでいては、民を指導することが出来ない。
実際、松陰は勤倹の読書家である父や叔父から「話す暇があるなら本を読め」と指導された。そして、彼の“猛勉”とまでいえそうな読書記録がふんだんに残されている。とりわけ、松陰流の読書技法で注目すべきは多読と筆写である。特定のジャンルに偏ることなく、読書領域が異常にまで広く、多読である。九州遊学では、何と50日間に80冊を読んでいる。
そして、読み終わったら抄録というかたちでその本の要約を自分流にまとめ上げる。要点を整理するだけでなく、自分の意見も必ず書く。もし自分の本であれば、余白に文字をびっしり書き込み、作者と格闘したりしている。
彼の言葉によれば、
「経書を読むの第一義は、聖賢におもねらぬこと要なり。」
として、立派な人の前へ出てこびへつらうようなことがないために、読書をするのだ、という意味のことを語っている。
猛烈な読書を通して学び、考え、はたまた全国の友と交わり語るなかで自らの生き方を見つけていった。「志に殉じる」という場合に使う「殉じる」とは、命を投げ出すという意味だ。命を投げ出せるほどの志をもつことが経営者だけでなく人間として必要なのに違いない。
しかもその志は、私利私欲を離れたところにいち早く昇華させていかねばならない。
その結果、松陰のように、趣味や社交センス的には、いわゆる「粋」とは正反対の「野暮」と言われるときがあるかも知れない。しかし、「死して後已む」という生き方そのものが究極の「粋」なのだろう。
参考までに ★「松下村塾と松陰神社」
http://sapporo.cool.ne.jp/martian/syouinjinjya.htm