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六十にして六十化す

来年は満六十だし、本厄でもあるのでしっかりお詣りしておこうと、今年は伊勢神宮に三回行き、出雲大社にも詣った。さらには先日、浅草の酉の市に出むいて開運熊手を物色することにした。同行してくれた Z 氏が「どんな熊手をさがすつもり?」と聞く。たしかにある程度決めておかないと目移りして大変だ。

「還暦の赤いちゃんちゃんこを連想させる赤色系の熊手で、なおかつ、干支にちなんで馬のアクセサリーがあしらってあれば最高だね」と私が答えた。すると車好きの Z 氏は「赤い馬か、まるでフェラーリだね」と粋なことを言う。「そうか、私の来年のテーマは赤い跳ね馬なんだ」と自己イメージを押し上げた次第。

鷲神社(おおとり じんじゃ)の境内で売られている無数の熊手の中から我々はフェラーリのイメージを探し求めて 15分、ついに発見した。文字通り赤い馬をあしらった熊手が売られていたのだ。よし、これで来年に向けて良い準備ができた。

私が 20代や 30代のころ、60歳の人たちはすでに爺さん・婆さんだと思っていた。「がんばれ!社長」を書きはじめた 46歳のころに還暦の人たちをみると、すでにビジネスを引退してあとは老後の生活をエンジョイされる方々に思えた。ところが今回、自らが 60歳を半年後に控え、20歳も 40歳も 60歳もまったく何も違っていない自分に気づいて唖然とする。この調子なら、70でも 80でも 90でも心境は一緒なのかもしれない。そんな進歩のない私の心境が良いことなのかどうか分からないが、中国の古書にのこんな一節がある。

「行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す」

『淮南子』(えなんじ)にある言葉である。その意味は、五十歳になって、それまでの四十九年間が間違っておった、駄目だったとしみじみ悟ることができる大切さを問いている。さらに、六十歳まで生きても自己反省を忘れず、改めるべきことを改めていって毎年生まれ変われるような人間が本物だ、と教えている。

・自分はこういう人間であり、それを今さら変えられない
・○○についての持論はこうであり、それを曲げるつもりはない
・私はたくさんの経験をしてきたし、たいていのことは知っている

という姿勢は捨てよう。経験したことは事実でも、その時に得た知識や知恵が今、その場面でも通用するかどうかは定かでないからだ。

その反対に、
・私は何も知らない
・あらゆる人から教えを乞うて学びながら生こう

という程度が良いのだと思う。周囲の人も「そうしなさい!」と赤いちゃんちゃんこを着せるのだから。