実話ベース物語

床屋の大将

●11月から床屋が10%値上げし、5,000円になる。値上げ後初となる床屋に先週行ってきた。

開口一番「宝塚のブラック問題、武沢さんはどう思います」と聞いてきた。
私は持論を述べた。

「宝塚を批判するのはカンタンだが、どちらかというと私は擁護する側かなぁ。だって芸能の世界は先輩から芸を学び、身体で覚えていく世界でしょ。芸能の世界は企業の労基法がそのまま通用するわけじゃない。仕事をもらわなきゃならないだけだから生存競争に必死になる。床屋だってそういうところがあるでしょ?」

以下は大将談話の要約。

●宝塚歌劇団に入る人はみんな根性がすわっていると改めて思った
だってあれだけハードな仕事と練習、準備を続けながらも笑顔とファンサービスを忘れない。日本屈指のがんばり屋さんが集まって、超絶ながんばりを続けていることで成立している華々しい世界が宝塚歌劇なんだね。

「床屋だってそうでしょ?」と武沢さんはいうが、よその床屋のことは知らないが、うちの店は宝塚とレベルが違いすぎる。今がんばらないでどうするの?というところでがんばることが出来ない甘えん坊が時々入社してくる。

床屋の場合、閉店は夜の8時。その後、かたづけをして軽めの夕食をとると9時。それから1時間か2時間、新人をとった場合にはトレーニング期間がある。

実際のお客さんで練習するわけにはいかないので、人形をつかったり、人間がモデルになったりしながら、髪のカットや顔そり、シャンプーなどを学んでいく。
専門学校を卒業してきたとはいっても、すぐにお客さんを任せるわけにはいかないのだ。

●最初の1ヶ月は終電で帰るようなことがしばしばある。そんなある日のこと新人の親から電話があった。

「いつも夜遅くまでご指導いただいてありがとうございます」と言われるのかと想像した。だが違っていた。苦情の電話だった。

「息子はそれほど丈夫な体質ではないのに、食事も休憩もまともに取れないで働きどおしのあげく、深夜にヘトヘトになって帰宅する日が続いています。最初は訓練が必要なのはわかりますが、せめて法律で定められた残業代はきちんと支給してやってほしい」

●僕はあっけにとられたね。

「はあ?これは僕のワザを○○君に特別に教えているボランティア指導なんですよ。電気代もシャンプー代も機材も全部うちもちで指導させてもらってます。夜間指導は強制ではないので、やりたくない時は言ってくれよ、と彼には伝えてあります。閉店後の実技指導に残業代がつくなんて話は聞いたことがありませんね」

「あら、そうかしら。最近はブラック企業批判で叩かれていますので、前近代的なことは許されなくなっていると聞いています」

●その後、夜間レッスンの頻度は半分以下にした。大将は失望したが、これも最近の若い人の傾向なのだと自分に言い聞かせた。

次の事件はその二ヶ月後のことである。
新人の親が「会いたい」と言うので休業日に喫茶店でお会いした。
親の横には新人もいた。

●前置きもそこそこに、親は医師の診断書を手渡しながらこう言った。

「昼の休憩以外に、定期的に休憩を取らせてやってほしい。その診断書にも『長時間の立ち仕事が原因と思われる疲労性の腰痛』とあるように、まだ二十歳の子どもなんですからいきなり諸先輩と同じことをさせられるのも可愛そうかなと」

●その後、その新人は依願退職した。
大将いわく、「20代は親の影響が子に及びすぎているケースが多い」という。

こういう生々しい話が聞けるので、床屋代金が10%くらい値上げしても私はなんとも思わない。