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S君のことを思う

 

S君のことを思う

●S君という旧友がいる。私がサラリーマンをしていた25歳のころ、新卒で入社してきた後輩の一人だ。本当は別の会社に内定していたS君だが、研修先の店長にセクハラされて内定辞退し、私がいた会社に来た。

●「武沢先輩、この会社には変な人はいませんよね?」が私への第一声だった。セクハラを気にしての質問だと後から知ったが、それを知らない私は「良い意味で変な人ばっかりだよ」と答えた。

●「良い意味で変?」
「そう、だってスポーツ用品店なのに人々の暮らしを変えると本気で思ってるんだから。変でしょ。だから伸びるんだよ」と私。
その後、何十年経ってもこの話題が出る。「武沢さんが変な先輩だったら僕はもう一つの内定先へ行っていました。あのとき武沢さんが
『ウチは伸びる』と言ってくれたので、そんなことを即答してくれる先輩がいる会社なら間違いないと、腹が決まったのです」

●S君は今62歳。
アートを仕事にし、ある分野の家元でもある。「好きこそものの上手なれ」の手本のような人なのだ。
彼が小学生のとき、近所の百貨店に山下清画伯がやってきた。母親に連れられてサイン会の行列に並んだ。絵が大好きだったS君は山下画伯に自分の絵をみせた。すると、「ぼく、じょうずだねえ」と頭をなでてくれたのだ。それがすごくうれしくて、S君は絵ばかり描きつづける少年になった。絵の学校に通ったわけではないが、大人になっても絵やデザインの仕事をたくさん引き受けるようになった。

●当時、私は風呂とトイレと洗濯場が外にある家賃9,800円のアパートに住んでいた。連日隣の部屋から激しい夫婦げんかの罵声に混じって、チャリーン、チャリーンと何枚も皿が割れる音がする。たまには、ドスーンと人が倒れる音もする。どちらかが倒された音だと思うが、薄いベニヤ板一枚くらいの間仕切りなので、自分も同室にいるかのような音と振動だ。

●引き払って会社の近くに引っ越すとき、S君が車を出し引っ越しを手伝ってくれた。そのとき、私が持っている本の多さに驚いたS君は、本ってそんなに面白いですか?と聞いた。
当たり外れはあるけど、本ほど面白いものはない。少なくとも僕には映画や音楽やそれ以外の娯楽より、断然、本がおもしろい、というようなことを話した。

●家賃23,000円の新居にはたくさんの後輩が遊びにくるようになった。
コーヒー好きの私は、すでにコーヒーメーカーを持っていたので、コーヒー目当ての後輩が多かった。だが彼らの本音はコーヒーではない。
帰りがけ、私の押し入れにある菓子箱に秘められた男性誌を借りて帰ることがメインだった。私もそれを知っていたので、品切れを起こさないよう定期的に補充した。

●よく出入りする十人の後輩のなかにS君もいた。そして唯一、S君だけは別の目的でうちへ来た。彼の場合は菓子箱の雑誌ではなく、本棚にある本だった。特に小説だった。
「武沢さん、一番おすすめの小説を貸してください」というので単行本の『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)を貸してあげた。歴史小説というものを読んだことがないというし、司馬遼太郎も坂本竜馬も知らないS君。楽しめるかどうか心配だったが、意外にも2~3週間したら返しにきた。

●早いね、というと意外な感想がかえってきた。
「すっげぇオモシロかったです。僕、燃えました。なので自分用にも『竜馬がゆく』を買って、小さめの本棚も買ってきました」と興奮気味だ。
人は見かけによらないものだ。デザイナー・山本寛斎に似た風貌で、社交的で外のことに関心が強いS君。じっくり歴史小説を読むタイプにみえないが、歴史小説に目ざめた瞬間だった。
私の書棚にあった(とはいっても少ない冊数だが)歴史小説をすべて読破したS君は、自分で本を買う青年になった。

●それから2~3年経った。社員旅行で北海道へ行った。
札幌から中山峠を超えてニセコへ向かうバス旅。渋滞に巻き込まれて4時間以上の長旅になったが、私とS君は歴史談義が止まらず、周囲の社員に「よく4時間も話すことがあるね」と愛想をつかされた。
長旅でウンザリ顔の周囲に対して、私と彼はまったく意に介さなかったのだ。

●絵といい、歴史といい、(後に極めた)書といい、S君は「好きこそものの上手なれ」を実践してきた。
孔子は論語のなかで、それを簡潔に表現している。

「之(これ)を知る者は、之を好む者に如かず」

今日の結論:好むものをもとう。好む対象をマネジメントしよう。

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