岬龍一郎氏の「『上に立たせてはいけない人』の人間学」を読んだ。こういう骨太な好著が売れてほしいと思う。
著者は、いまの日本には真のエリートがいない、と嘆く。学校エリートではなく、「見識」「人間的教養」「道徳的気概」をもった国家を支える真のエリートたちがいなくなったら、国家は内部から崩壊するという。
「オレはバカだ!」と訴えて参院選に勝とうとした候補者がいたが、そうした人物に国家の運営をゆだねるようなことがあってはならない。(幸いそうならずに済んだが)
そういえば、たしかに今の日本では「国家」とか「エリート」などという表現自体が死語になりつつある。いやタブー視されるされてきたといった方がよい。
民主主義のもとでは主権在民だから、政治家や官僚は公僕。公僕である彼らが「国家」という表現をつかうこと自体を、体制側の人間とみなすようになったのは、戦後数十年のことだ。
国家観と愛国心のない人物が、政治の主要な力をもち続けると、この先どうなってしまうのだろうか?
長州藩のおぼっちゃん書生であったころの高杉晋作に対して、友人の久坂玄瑞が議論をふきかけている。
以下、司馬遼太郎著「世に棲む日日」より引用
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久坂「きみは将来、なにをしようとするのだ」
高杉「学問の目的どおりである」
久坂「学問の目的とは」
高杉「治国平天下」
と、晋作がいうと、久坂は
「治国平天下という表現は、泰平のときにこそふさわしい。おなじ意味ながら、いまの世なら、救国済民と言いかえたまえ」といった。
国ヲ救イ民ヲ救ウという。さらに久坂のいうのは、「国ヲ治メ天下ヲ平ラカニス」というのはこれは単に道理をのべているにすぎない。
「国ヲ救イ民ヲ救フ」といえばおなじ意味でも電磁を帯びて電光を発
する。思想というものは電光を発するものでなければならぬ、といった。
・・・
司馬遼太郎ならではの世界だが、当時の若き志士のあいだでは、このような会話が当然のごとくされていたと思われる。
たしかに民主主義のもとで身分制度は崩壊した。エリート教育もなくなった。政治家が国民の上にたつものでもない。しかし、上に立つものとして唯一存在するのは企業経営者だ。
企業経営者には、リーダーとしての自覚とともに、電光を発する思想と見識、それに気概がなくてはならない。