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新元号は「光文」ですと報じた新聞社

新元号は何になるのか。ネットで予想ランキングが発表されている
が実際に何になるかは分からない。
「元号が変わると何が変わるのですか?」と平成生まれの経営者に聞
かれたことがある。
今から30年前の1989年1月8日に新元号「平成」が発表された。そのと
きは、印刷物、硬貨、自販機、コンピュータなどの関連業界が特需に
わいた。

その反面、昭和天皇崩御によるイベント自粛ムードが広がり、お祭
り騒ぎ的なものが次々に中止されている。
今回は崩御ではないため、お祝いムードが街にあふれだすのではない
か。新元号をつかった新会社がつくられ、新元号のイベントやセール、
キャンペーンで今年は新元号フィーバーになるかもしれない。
3月、4月ともなれば「さよなら平成セール」など、平成に別れを告げ
る企画も出るだろう。

ネットやテレビ、ラジオがない時代には新聞が圧倒的な影響力をも
っていたわけだが、大正から昭和に切り替わるとき、新聞各社がスク
ープ合戦を繰り広げている。内閣の要人とコネをつくり新元号をどこ
が真っ先にスクープするか競い合った。
当時のエピソードが『B面昭和史』(半藤一利著)に紹介されているが
その一端をここにお届けしたい。

昭和64年も一週間しかなかったが、昭和元年も一週間しかなっかた
のをご存知だろうか。
大正15年12月25日午前1時25分に大正天皇が亡くなられ、2時間後の午
前3時15分に皇太子裕仁親王が第124代天皇になられた。ときに25歳。
同日正午ごろ、新聞各社が号外を発行し、新元号「昭和」を告げた。

もともと用意されていた元号の草案には、昭和、伸和、恵和、敬和、
休和、咸和、神化、観化、敦化、景化、光化、化光、天光、大光など
43の候補があった。その中から「昭和」が選ばれたわけだが、元号の
決定要因のひとつに「だれにでも書けるもの」というのがある。
その点において「明治」の直前の「慶應」(けいおう)は難しすぎた
と西園寺公望が述べている。みんなが書けなくてはならない、という
暗黙の了解が元号にはある。

さてテレビもネットもない時代。ラジオだってテスト放送に成功し
たに過ぎない段階では、新聞だけが唯一のマスメディアだった。
そのうちのひとつ東京日日新聞(今の毎日新聞)が天下の大誤報をや
らかした。

裕仁天皇即位が決まるやいなや号外を発行したのだ。新天皇即位と
ともに新元号が「光文」(こうぶん)に決まったと報じてしまったの
だ。国民はそれを信じた。なぜ「光文」を発表したのかは半藤氏の著
書に詳しいが、ここでは割愛。

正午近くになって他の新聞社が「元号は昭和に正式決定!」と報じ
て回ったとき、東京日日新聞には大勢の苦情が寄せられたという。
影響力の大きさには責任がともなう。同社は会社存続すら危ぶまれる
ほどに追い込まれたらしい。

1926年12月25日から「昭和」が始まったが、あれから93年経過した。
その間、生活も暮らしもビジネスも激変したが、新元号の名称を心待
ちにする姿勢は当時もいまもあまり変わらないのではないか。

参考:『B面昭和史』(半藤一利著)
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