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熟年起業家 S 氏の懊悩

昨日は都内のセミナー会場に熟年起業家たちが集まった。
私を講師にして公開セッション付きの起業家養成講座を企画した主催者。
私は熟年起業家向けのカリキュラムを考え、この日のために用意した資料も持参して意気揚々と会場入りした。

ところが場内の空気が異様だった。
最前列に陣取り、開講前から声高に自分の意見を周囲にむかって述べている人がいる。
3年前に準大手のシステム会社を定年退職し、現在は68歳で年金生活をしておられる S 氏だった。
「がんばれ!社長」のことも武沢のことも知らない。私が名刺を渡しても「名刺は持ってないので」と名乗りもしない。
こちらが「お名前は?」と尋ねると「S です」とだけ言った。自己開示できないのだろうか。

主催者あいさつのあと、演台に立った私はまず受講者に自己紹介していただいた。
順番がきた S 氏はこんな挨拶をした。
「年金生活を始めた3年前はギリギリ生活していけるので安堵したのですが、毎年控除額が増えていって、手取りが減っています。これは働かないと、やっていけない、と今年ぐらいから起業を考えるようになりました」

やりたい事があるから起業するのではなく、年金の足しに収入を確保したいというのが目的のようだ。
何をするかは決まっておらず、前職の先輩に体験を聞きにいったり、ネットなどで情報収集に明け暮れているという。

私は日ごろ、「会社を良くしたい」と考えている経営者を相手にしている。
なので、「何でもいいので収入の足しを」という人とは今まで一度もお目にかかったことがない。
「だがこれも縁だ」と、気を取りなおして全力で講義をはじめた。

ところが、私の全力講義が S 氏の反発を招いた。
講義の最中に発言を求めた S 氏はこんなことを述べた。

「自分の強みを活かせとか、目標と計画を紙に書けとおっしゃるが、私の先輩はみんなそれで失敗した」

「え?そうなんですか。先輩がうまくいかなかった理由は別のところにあるんじゃないですか。ここまで私がお話ししたことは至極当然なことばかりで、異論はないと思うのですが違いますか」

「いや、私の先輩はサラリーマン時代、優秀なプログラマーやエンジニアで、会社を引っ張ってきた腕ききの人材だ。そうした先輩が定年後に自分の経験と強みを活かして独立した。自分の会社を起ち上げ、営業を始めたのだが、まったく売上げが立たない。結局、退職金を使い果たして事業を閉鎖する羽目になっている。何人もの先輩が失敗した。起業の成功率なんて微々たるものだという話もよく聞く。私も失敗する可能性の方が9分9厘あると思っている。進むも地獄、ジッとしているのも地獄、武沢さん、時間も残りすくなく、金も体力もない、ないない尽くしの熟年起業の成功はそんなに甘くないのです」

「それで?」と私。
「それで?」とオウム返しする S 氏。
「はい、それで何をおっしゃりたいのですか。もう一度確認しますが、S さんが今日ここに来られた目的は何ですか。私は今日与えられた時間を全部つかって、うまくいくための方法をお伝えします。もし私に熟年起業は甘くないということをお伝えになりたいのなら、もう充分です。熟年起業が甘い、なんて少しも思っていませんから。そのためにこうして真剣にやってるんですから」
顔をゆがめ、弁明のために口をひらきかけた S 氏を制して、「事業とはなにか」(『現代の経営』ドラッカー)の資料輪読に入った。

私の仕事は S 氏との口論に勝つことではない。
なぜなら、S 氏も幾ばくかのお金を払ってここにいる。
何かを求めているはずだし、何かを訴えたいのだと思う。
主張が下手だから妙な対立感情になったが、S 氏は懊悩(おうのう)しているに違いない。

不安は希望の欠如状態をいう。
不安を消し去るのは希望だけだ。
不安だけを外科的に摘出することはできない。
唯一できることは、不安を希望に置きかえることだ。
S 氏はいま、不安しかない状態なのだろう。
今日は希望を持ち帰っていただこう。

余談だが、他の講師が滅多にやらないテキストの輪読を私は多用する。
それによって、順番が回ってくるという緊張感を生む。
漢字を含む文章を正しく朗読できるか、という互いの関心が、教室の集中力を高める。
しかも輪読は、先生と生徒の立場を明確にしてくれる。
だから、私は講義では輪読を取り入れることが多い。
時には人数が多い講演会でもそれをやる。

ドラッカーの輪読が効いたのか、別のことが効いたのか分からない。
輪読後の質疑応答で S 氏が、「ドラッカーの本は何度も読みかけては挫折してきました。こんな良いことを言っているのですね」と感想をもらした。

次の時間は予定を変更した。
経営の話ではなく、Wish-List の時間に充てた。
目標設定の最初の第一歩は気軽にWish(願望)を書き出すこと
仕事だけでなくプライベートのことも含めて、思いついた順に何でも箇条書きにする。
質ではなく、まずは量で勝負する自分への挑戦としてWish-List 作業を20分間やっていただくことにした。

<今日はここまで。明日につづく>


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