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あるビジネスチャンス「レイ・クロックの挑戦」その2

Rewrite:2014年3月26日(水)

1954年(昭和29年)にマクドナルド兄弟のレストランと出会い、権利を取得したクロックは、翌年イリノイ州で念願の第一号店を開設する。初日の売上高366ドル12セントは決して悪くない数字だ。だが彼の夢はレストランの経営ではない。全米に展開するフランチャイズチェーンの実現こそクロックの夢だ。その後の奮闘がめざましい。

今では当然のように語られる「QSC」(品質、サービス、清潔)。これが、当時はいかに斬新なアイデアであり、かつ困難なものであったか、今の我々には想像できない。クロックは、その「QSC」実現のために、文字通り粉骨砕身した。

屑肉に混ぜ物をするのが当たり前だったハンバーグを、新鮮な牛の肩肉およびバラ肉から作るという業界一厳しい基準を設け、飼料まで指定した。フライドポテトを美味しくするために、膨大な実験と試行錯誤をくり返した。
さらには、広がり続けるフランチャイズシステムの開発。店舗経営のノウハウを教育する「ハンバーガー大学」の設立。膨大なマニュアルの開発、そしてあのドナルド、マクドナルドというキャラクターの開発・・・。

ゼロからのスタートではあったが、クロックの元にかけつけた人材たちがサポートした。今、私たちが目にするマクドナルドのすべてが、夢に賭けた人間のアイデアと汗によって完成されたものである。

特に、創業2年目におけるフレッドターナーとの出会いが夢の実現に加速をつけ、1965年(昭和40年)には、ウォール街で株式公開を果たした。それは、わずか10年目のスピード公開であった。そして1977年(75才)で引退するまでの23年間、クロックはマクドナルドビジネスにすべてを投入した。文字通り、世界を駆け抜けたのだ。

マルチミキサーのセールスを通して出会ったマクドナルド兄弟。そして彼らが経営する繁盛するドライブインレストランを目撃した。大勢の利用客や通行客がそこにはいた。しかし、そこから偉大なビジネスチャンスを見たのはクロックだけだった。挑戦を決意し、リスクを取ったのもクロックだけだったのである。

こうしたクロックの歩みやマクドナルド社の歴史は米国マクドナルド公式サイトに掲載されている。機械翻訳なので少し読みづらいが雰囲気は充分伝わってくる。

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