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続・ある国民俳優のスタイル

昨日号で『男はつらいよ』の渥美清を国民俳優だと紹介したところ
「僕も寅さんの大ファンです」「全シリーズ観ましたよ」「マドンナの名前を全部言えます」といった熱心な寅さんファンからメールをいただいた。
だが正直に告白すると、国民俳優と言ってはみたものの、私自身はそれほど寅さんの映画を観てきたわけではない。
48ある『男はつらいよ』作品のうち10話程度しか観ていないはずだし、内容もあらかた忘れてしまった。
むしろ彼の意外な一面を最近知って興味をもち始めたところである

テキ屋の「寅さん」のユーモアあふれる闊達さとは対照的に、渥美の実像は公私混同を嫌い、他者との交わりを避ける孤独な人だったという。
ロケ先での地元有志主催の宴席に一度も顔を出したことがない。身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。
タクシーで送られる際も「この辺りで」と自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。

『男はつらいよ』シリーズで長年一緒だった山田洋次監督や、黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族と面識がなかった。
すべては「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであったと言う。

渥美は非常な勉強家で、評判となった映画や舞台は欠かさずチェックしていた。そんなときの渥美は「寅さん」とはまったく違う洗練された服装のため、他の観客はほとんど気づかなかった。

寅さんシリーズの山田洋次監督は渥美を「天才だった」と語っている。
台本を2~3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまうなど、渥美の記憶力のすごさに驚嘆しているのだ。
同時に渥美は不器用でもあった。寅さんのイメージを大切にしたいあまり、他の映画への出演話を次々に没にしていった。
そこが国民俳優の面目躍如たるところでもあるのだが。

渥美は若いとき船乗りを志して大学を退学している。だが母親に猛反対されたため船乗りを断念した。
やむなく知り合いの伝手を頼って旅回りの劇団に入り、喜劇俳優の道を歩みはじめることにした。
昨日号の警官の影響かもしれない。
当初の芸名は「渥美悦郎」だったが、座長が観客に向けて配役紹介を行う際、下の名前をド忘れし、「清」ととっさに言ってしまった。
それでもいいか、とその後、そのまま使用した。ちなみに「渥美」は、愛知県の渥美半島からとったとされる。

渥美清は人との交流を嫌ったと先に書いたが、その原因は健康上の理由もあったはずだ。
渥美は、過剰なほどに摂生と養生につとめた役者である。理由は20代のときに肺結核を患い、右の肺を切除しているから。
その後、胃腸も壊しており、酒・タバコ・コーヒーなどを一切やめてしまった。

友人が多くない渥美だが、互いに芸を認め合う親友がいた。
藤山寛美である。年齢はほぼ同年で渥美の方が一歳上である。休みなく舞台活動を続ける寛美をみて渥美は「彼は丈夫だねぇ。俺だったらとっくに死んでるよ」と感嘆している。

一方、寛美は渥美と舞台で共演したとき、「貴方と初めて芝居が出来てうれしい」とメモを鬘(かつら)の裏につけて渥美に届けている。
後日、寛美が『男はつらいよ』の舞台公演をやらないかと渥美に呼びかけたが、渥美は体力を理由に断った。
周囲はとても残念がったが、渥美は自分の体力の限界を知っていたのだろう。

渥美も寛美を高く評価しており、こんな一文を書いている。
「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で見るだけで、楽屋には寄らずに帰れる。帰る道すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている。」

寛美も寛美で、渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で得意のアドリブをかます。
「横丁のトラ公、まだ帰ってこんのか。」意味がわかる観客だけが大爆笑した。

人間・田所康雄は俳優・渥美清をみごとに演じ、俳優・渥美清はフーテンの寅こと車寅次郎を演じ切った。人生冥利、役者冥利に尽きることだろう。

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私、生まれも育ちも葛飾柴又です。性は車、名は寅次郎、人呼んで風天の寅と発します。
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ああ、また寅さんの口上が聞きたくなった。