自分の利益だけを考える人は、ガツガツ営業して周囲に嫌われるか、奥ゆかしく遠慮ばかりして喰えなくなるかのどちらかになりやすい。
ガツガツ営業する人は、注文をもらったとたんに連絡がこなくなる。
自分の利益が大切だからだ。
一方、他人の利益や公の利益を考える人はガツガツ営業する人と表面的にはよく似ている。だが、注文をもらったあともガツガツくる。
無私の人は筋金が通っている。私も「無私」をめざしたい。
任天堂のマリオがスターを取ると一定時間、無敵状態になる。ひとたびこうなると、相手が誰であろうと、どんな場所であろうと何も恐いものはない。ゲーマーが最も痛快なひとときである。自分もああなりたいと思うことがある。
マリオの場合は、自分が突然強くなるわけだが、仏教では自分が強くなるのではなく、自分がいなくなることが大切と説いている。
禅僧が洗面するのも食事するのもトイレも入浴も修行と心得、修行に没頭する。そうすることで、やがて自分がいなくなる。無敵になるのではなく、無になる。それを「出身の活路」ともいう。
禅の開祖、道元禅師は無になることの大切さを次のように説いている。
「仏道を学ぶということは、自己を学ぶということである。自己を学ぶということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、すべてのものに悟らされることである」
自己を忘れることで始めて周囲のもの、すべてのものに悟らされるのだと道元。自己を忘れるための方法として禅を説いた。
座禅が最高の手段だが、修行僧と違うので座禅ばかりやっているわけにはいかない。そこで、今やっていることに没頭し、それになりきることを説いた。
以前、座禅道場に行ったときこんな貼り紙がしてあった。
廊下・・・歩行にありては、ひたすら歩行すべし
トイレ・・・放尿にありては、ひたすら放尿すべし
食堂・・・咀嚼にありては、ひたすら咀嚼すべし
「なりきれ」というメッセージである。
一週間の座禅修行の最終日、道場主が私を自室に招き、こう説いた。
「明日から仕事ですね。あなたはメールを毎日書く人らしいが、メールを書くときはひたすらメールを書くこと。同時にあれをやり、これもやりすると、人は心と行動が離れ出す。心身一如でなければ、周囲のものに悟らされることはないので、心身一如であるかどうかを仕事中の判断基準に置いてほしい」
私は正座してその言葉を聞き、「わかりました。そのように勉めます」と座布団をおりて深くお辞儀をした。その瞬間、悲しいとか嬉し
いの感情がないのに、大粒の涙がポロポロポロとこぼれ落ちた。
そのときまさに「心身一如」になっていたとしか思えない。