フィル・ナイトの『シュードッグ』を読んでいる。著者がナイキを創業する前は、日本のオニツカタイガーのシューズに惚れ込み、それをアメリカで売っていた。その当時の様子などもことこまかく書かれていて興味深い。フィルがかなり日本好きであることもわかった。
売っても売っても会社が楽にならない若きフィル。
苦肉の策でオニツカの代理店企業としてアメリカで株式公開を試みるが買い手がつかず断念した。このときさすがに参ったらしい。
「靴を売る仕事を選んだ自分は、ひょっとしてバカだったか?」真剣にそう自問している。
たしかにその当時、周囲の多くはフィルがやっていることをバカげているとみていたようだ。だが、いまフィルのことをバカと言える人など一人もいない。なにしろ、あの「ナイキ」を創業した世界屈指のカリスマ起業家なのだから。
昨日・一昨日の二日間にわたってご紹介した A さんと B さんも相当なバカである。
当時の彼らにとって貴重な貴重なお金をパーッと使ってしまうわけだから、常識人からみれば「バカ」である。だが、そのバカっぷりが見事だと人の心を打つようだ。
ときどき、決して損をしない人を見かける。得をすることはあっても決して損をしようとしない人は、徳を積んでいない。器が小さくみられてしまう。その結果、社会からプレゼントを受けることもない。
反対に、いつもそっとワリカン負けしたり、損な役回りを引き受ける人がいる。そういう人は徳を積む。すると、必ずなにか良いことが起きる。
損する・得するの一番分かりやすい場面がお金を支払うとき。
ケチがいけないのではない。金銭に細かいことがいけないのでもない。
自分だけ得しようという了見がよくない。
いつも一方的にご馳走になろうという姿勢では、早晩、社会から抹殺されることになる。
三島由紀夫を敬愛していた石原慎太郎。二人がある雑誌の企画で対談をした。テーマは「男は何のためになら死ねるか」だった。
対談を始める前に三島が石原に提案した。
「意見を言う前に、お互いに大切だと思っている考えを紙に書こう」
という。二人が手元の紙に自分の意見を書き、司会者に手渡した。
すると司会者は驚いた。「自己犠牲」と二人ともが書いていたのだ。
バカになるとは、自己犠牲である。すすんで損を引き受けることである。しかも真剣に。それには、損得を乗りこえた別次元の動機が必要になる。
余裕があればだれでも犠牲が払えるが、 A さん、B さんのように余裕がなくても犠牲を払える人はごく一部だ。そして、そういう人が経営者としても大成するのだと私は思う。