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三成の死生観

「あすありと 思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
(親鸞)

あすのことばかり考えていて、案外、今夜ぽっくりいってしまうことがある。それが人間というもの。

「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(論語)

明日死ぬとわかっていても今日学ぶ。それも人間だ。

「人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りやと思うておった。ところがそれは間違いやった。平気で生きていることが悟りやった」
(曹洞宗大本山永平寺78世貫首:宮崎奕保(みやざき えきほ)師)

都合のよいこともわるいことも起きる。一喜一憂せず、何が起きても平気で生きられる人間でありたい。

ある日、のどが渇いた石田三成は水を所望した。
だが、その場に水はなく、取れたての柿があった。周囲の者は「水はございませんが、柿ならございます」と言うと、三成は「柿は腹にわるい」と手を出さなかった。
それは、関ヶ原の合戦でやぶれた三成が公開処刑される直前のことだった。今から死ぬとわかっていても養生するのが人間だ。

「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という孔子の教えを三成も学んでいたことだろう。