Rewrite:2014年3月27日(木)
「武沢さん、うちの会社にはもうすぐ 77歳になる専務がいるのですが、これって問題でしょうか?」
ある工務店の社長がそう尋ねた。その会社では定年がない。もちろん、役職にも定年を定めていない。したがって 77歳でも 80歳でも 90歳でも適任でありさえすれば役職者として働けるそうだ。
私は、「社長や部下からみて問題がなければ、年齢なんて関係ありません」とお答えした。
すると、「問題がない、というのはどういうことですか?」と更に聞かれたので、「憤の有無です」と返答した。
佐藤一斎が書いた『言志四録』のなかに「憤の一字は、これ進学の機関なり」という言葉がある。発憤することが、学業や仕事を牽引する機関車になる、という意味である。
その「憤」には二種類ある。「よし、がんばるぞ」とか「なにくそ、負けてたまるか」と奮い立つことを私の憤、つまり「私憤(しふん)」という。
「このままでは日本の政治がダメになる」とか「この業界をもっともっと良くしたい」などと自分以外のために奮い立つことを「公憤(こうふん)」という。
私憤であろうが、公憤であろうが、「憤」がある人は伸びるし、人の上に立てる。反対に「憤」がない人はどんな教育を施そうが、どんなポストに据えようが期待に応えられない。
かつて吉田松陰は地域の子どもや青年達を身分の垣根をこえて教え育てた。「松下村塾」といった。高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義ら、明治維新の立役者をたくさん育てた。松陰先生が塾生個々の適性を見抜き、それに応じたカリキュラムを組んで育ててくれた。
だが松下村塾にやってくる子どもの中に、「憤」がない子が三人いた。二年間も松陰先生の元で学び、明治まで生きたにもかかわらず、まったく出世せず、それどころか、行方もわからなくなってしまった若者たちである。記録では、音三郎 16才、市之進 13才、溝三郎 13才となっていて、いずれも町人の子だったという。人からたのまれて松陰先生は断れずに置いておいたが、いずれも、ふやけた感じの子で松陰が懸命に矯正を試みたが結局うまくいかなかったという。
リーダーの立場がつとまるかどうかの判断材料として「憤」がある。
あの松陰先生ですら、「憤」がない子どもは育てられなかったわけだから「憤」がない人に大きな仕事を任せられない、ということを頭に入れておきたいものだ。