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「万延元年のフットボール」と「人間失格」を読んで

「テキスト(教科書)を読まされている気分です」

私が書いた文章が読者から批判されることには慣れているつもりだったが、ある本の担当編集者からそんな感想を聞かされたときには身体がかたまった。
「もっと優しい言い方はないものか」と彼のメールに憤りを感じるとともに、たしかに先生気分で書いている自分に気づかされた。
三日間ほどその言葉が脳裏から離れなかった。あれから10年、いまだに忘れられない苦い思い出である。

本の感想は人それぞれでもある。
太宰治は、自分の作品を酷評した川端康成に抗議の手紙を送っている。
その手紙が『川端康成へ』という本にもなっているほど文豪だって、書評は気になる。川端のようにしっかり本を読んで述べる感想には筋が通っているが、最近は、ろくすっぽ読みもしないで感想をネットに投稿するケースもあり、評価がゆがめられることがある。

ある人が『万延元年のフットボール』(大江健三郎)を絶賛していたので、買って読み始めたらさっぱり意味が分からない。日本語だから、書いてある文章はすべて読めるのだが、意味がまるで解釈できないのだ。

・・・夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。内蔵を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躯の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持ちで望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。
(『万延元年のフットボール』の書き出し)
・・・

なんだこれ、主語と述語の関係が分からない。3ページほどで読むのをやめにした。その人がもう一冊絶賛していた『人間失格』(太宰治)を読むことにした。

・・・
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。
(『人間失格』の書き出し)
・・・

こちらはサクサク読める。最初から引きこまれ、数時間で読み終えた。「太宰って初めて読んだけど、面白いなあ」という心地よい余韻に浸り、ついでの力を借りてもう一度『万延元年・・・』を読み始めることにした。
すると、10分ほどして物語が動きはじめ、意味も理解できてくると俄然、面白くなり始めた。この調子なら今週の何曜日かには私も絶賛する側の一人に回っている可能性もある。

評価が高い本というのは途中でやめてはならない、という至極当然の教訓だろうか。

先週、浜松で行政書士法人の設立記念式典に参加した。パーティでひとりの行政書士が、「今ドラッカーを勉強しています」と自己紹介された。「武沢さんのお気に入りは何ですか?」と聞かれたので、『現代の経営』と『プロフェッショナルの条件』の二冊をあげると、おどろいた顔でこう言われた。

「『現代の経営』はわたしも賛成ですが、『プロフェッショナルの条件』ってどうなのでしょう?私にはむずかしかった。途中で読むのをやめたのですよ」

意外に思った。ドラッカーの中でも分かりやすい本なのに、彼女にとってどこが難解だったのだろう?
翌日、オフィスの書棚から『プロフェッショナルの・・・』を引っぱりだしページを繰ってみた。すると、「ああ、このあたりか」と思いあたった。

Part1:いま世界に何が起こっているか
1章:ポスト資本主義社会への転換 3ページ
2章:新しい社会の主役は誰か   31ページ
Part2:働くことの意味が変わった
1章:生産性をいかにして高めるか 51ページ
2章:なぜ成果があがらないのか  65ページ
3章:貢献を重視する       83ページ
Part3:自らをマネジメントする
1章:私の人生を変えた七つの経験 97ページ
2章:自らの強みを知る      111ページ
3章:時間を管理する       119ページ
4章:もっとも重要なことに集中せよ 137ページ
Part4:意志決定のための基礎知識

・・・etc.

たしかに冒頭の数十ページは社会学の教科書を読まされているようなくだりがある。それはドラッカーが後輩プロフェッショナルに送るメッセージの伏線としてとても大切な箇所なのだが、「必ずこの本から学ぶぞ」「通読してみせるぞ」という覚悟がないと、はじき飛ばされる可能性がないとはいえない。私にとって『万延元年・・・』の冒頭の方がもっと大変だったが。

結論:「名作」と言われている本は途中でやめず、最後まで読もう。