Rewrite:2014年3月27日(木)
欧米ではお互いにファーストネームで呼びあうことが親しさの証と言われる。古くは、日本の総理大臣・中曽根康弘氏と、アメリカの大統領・ロナルド・レーガン氏が「ロン」「ヤス」と互いに呼び合っていたのが有名だ。相手と腹をわってコミュニケーションしたいとき、役職や苗字がない方が良いだろうということは理解できる。だが私は、日本のビジネスシーンで、ファーストネームで(日本人の場合、下の名前)やり取りしている光景にでくわすと違和感を覚えてしまう。
「タカシはどう思うんだ」
「ぼく?僕は賛成だけど、どうなのユキエは?」
「私はケンジの意見に賛成よ」
やっぱりしっくり来ない。
第二次世界大戦のとき、トルーマン大統領に「ジョージと呼んでいいか?」と尋ねられ、断った人物がいる。ジョージ・マーシャルである。彼は「いいえ、閣下。マーシャル将軍とお呼び下さい」と答えている。軍人としての自分を誇りに思っていたから、あえてファーストネームで呼ばせないという気概は見上げたものである。
そのマーシャル将軍は、自分と自軍をとても誇りに思っていた。従って、卓越していない指揮官がいるとすぐに解任した。卓越していない者に指揮をとらせるということは、指揮下にある者、たとえば軍や兵や国家というものに対する自らの責任を果たせない、と考えていた。周りには解任に反対する者もいた。
だが、「代わりがいない」「彼が一番マシ」という類いの意見には断固、耳を貸さなかった。マーシャル将軍の口ぐせはこうだった。
「重要なことは、彼がこの任務を果たす能力がないことが明らかになったということだ。どこから代わりをもってくるかは別の問題である」
同時にマーシャルは、その不適任者を任命した者にも問題があると語っていた。つまり自らに任命責任があると語っていた。
「その仕事が合わなかったというだけである。ほかの仕事にも合わないのではない。任命したのは私の間違いであって、次の仕事を見つけるのが私の責任だ」
<参考:『経営者の条件』(ピーター・ドラッカー)>