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目指せ!達人の「両忘」

日曜日の昼下がり。「今夜は何を食べたい?」と母親が聞いた。

「昨日はうなぎだったから、今日はサッパリ系の冷やし中華がいい」と長男。
「僕は麺類が苦手なのでカレーかオムライスがいい」と次男が言う。長女は好物の寿司がいいらしい。

「いや、中華がいい」「いや、カレーだよ」「ぜったいお寿司よ」
論争がはじまった家族をみて、父親はパソコンで観ていた映画を一時停止し、威厳に満ちてこう言った。

「みんな聞いてくれ。わたしはこう思うのだよ。人はパンのみにて生きるにあらず。生きるために食べようじゃないか、決して、食べるために生きるのではないよ」

「・・・」

意味不明な空気がただよう。
だが、母親だけはうれしそうにこういった。
「へ~、おとうさんは何も要らないってことね」
「お父さんのその言葉って、キリストとソクラテスのパクリだよね」と長女。

その通りだ。
「パンのみにて生きるにあらず」はキリスト。次の言葉がソクラテス(古代ギリシャの哲人)。

「そりぁパンだけじゃきついよ。肉も野菜も欲しいから」とまぜっかえす長男。
「バ~カ、そういう意味じゃないよ」と長女。
「じゃあどういう意味?」と次男。
「う~ん、なんだっけ。パンのみにて生きるにあらず、には深い意味があったはず」と長女。

ふたたび威厳に満ちて父が、「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉による」と言うと、「やっぱりお父さんは何も要らないのね」と母。
結局、その夜は出前のピザを頼むことになった。

人生と食についての関係は、キリストやソクラテスだけでなく、孔子もつぎのように言及している。

・・・憤(ふん)を発して食を忘るとは、これ聖人の志かくのごとくにして、真に已(や)む時あるなきなり。楽んで以て憂を忘るとは、これ聖人の道、かくのごとくにして、真に戚(いた)む時あるなきなり。・・・

意味:
仕事に打ち込んで食べることを忘れるのは聖人の共通点であって、実際に忘れることがあるものです。また、楽しむときには心配事を完全に忘れてしまう。それこそが聖人の生き方であって、悲しみや心配ごとに沈むことがないものです。

この故事から「両忘」という言葉が生まれた。食を忘れ、憂いを忘れる達人の生き方をいう。

「食べるものを心配する」という生き方は「両忘」とは真逆の生き方で、あえて造語するならば「両忙」となる。

目指せ達人:食べることと、心配することを忘れよう。