植物がすくすく育つのは大地や大気から栄養や酸素をしっかり吸収し、太陽の恵みを受けるからである。
すくすく育つ人もそれと同じだろう。食物や書物から養分を吸収し、目標や師の存在が太陽や北斗星の役割を果たして生きる道標となる。
何をなし遂げたいのかという「志」が水晶のように結晶化されていれば心が躍り、毎日布団をけ飛ばして一日を始めるだろう。
日本で長く続いた封建時代。お殿様から分け与えられた土地を農民が耕し、生産したものを年貢で納める時代が続いた。そうした仕組みを維持するために士農工商の身分制度もつくった。
それが完全に取りはらわれたのが明治維新なので、まだ150年の歴史でしかない。学問の自由、職業選択の自由、住む場所の自由、お金持ちになる自由も貧乏人になる自由も与えられた。そんなこと当然、と思いがちだが、日本における完全な自由はまだ150年の歴史でしかない。
長州藩の許可を得て、江戸に遊学した吉田松陰。『辛亥日記』という日記を付けている。辛亥(しんがい)とは嘉永四年(1851年)のことなので、ペリーが黒船で幕府を恫喝する三年前のことだ。
日記によれば、江戸での松陰の日課は、午前は乗馬と剣術の訓練。
午後は勉強会参加と読書に充てた。ひと月に30回ほどの勉強会に参加していたというから、毎日勉強会だったわけだ。加えて、日課として中国の歴史書『資治通鑑(しじつがん)』を30枚ほど読む。読むだけでなく、読書ノートも丹念に書いていた。それにプラスして、日記や報告書、手紙などもマメに書いている松陰。おそらく、今の大学生以上に勉強していたはずだ。
印刷事情が悪く、本がなかなか手に入らない。主要な本は筆写するしかない時代に、年間千冊を読破する目標を掲げていた松陰。『辛亥日記』には、それを達成できなかった(実績は600冊/年ほどだった)自分の不甲斐なさを書き記している。
出版物が手に入りにくい時代には、人間が本の変わりになった。事情通、情報通になるためには人に会い続ける必要がある。幕末における街道の往来は旅人ばかりのものではない。志士たちが大いに行き交ったはずだ。
教育者として、私心をなくすことに努めた松陰。
江戸で『辛亥日記』を付けていたのは21歳のとき。のち、井伊直弼の安政の大獄で処刑されるのが8年後の29歳。
江戸遊学に来た当初の目的は毛利のお殿様のためだった。しかし、黒船来航後はそれが大きく変わって倒幕の旗振りを演じるためになる。
学問の目的が変わっても、変わらなかったことはただひとつ。公のために生きるという信念だった。私心を去ることに努めた。そのために、絶えず身辺を清潔簡素にし、教育者・指導者としての自覚と責任感で自らを律した。その上で、若者たちを教え導き、行動の人であることを彼らにも要求した。そうした日々の生活態度が松陰の人格となり、圧倒的な迫力で松下村塾塾生たちに強い影響を及ぼしたことだろう。
不自由な時代に生きぬくために「志」を定めた松陰。自由の時代を心から満喫するために私たちは、もっともっと明確な「志」が必要だろう。「志」は心の芯、いや、もっと太い軸のような役目をする。
「志」が明確になるまでの間は、松陰のようなメンターを心にもって、稚心(甘えの心)を消しさることにつとめよう。