『百万回生きたねこ』(佐野洋子著 講談社刊)に号泣している娘をみて、私も号泣した。
お互いに言葉を必要としない愛の世界に包まれると、人は生まれ変わってもまたこの人と人生を送りたいと思うのだろう。この童話の主人公ねこのように、百万回死んで、百万回生きてきたにもかかわらず、最愛のねことの出会いで、二度と生まれ変わる必要がなくなるようなことになれば、それはきっと本望に違いない。
百万回生きたねこ
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「社長、わたくし山田源太郎も40年もの永きにわたり、この会社一筋に勤めさせてもらいましたが、早いもので、とうとう今日で定年退職することになりました。二十歳(ハタチ)のころは、ホントに世間知らずなはな垂れ小僧でしたが、この会社でガムシャラにがんばるうちに、どうにか世間からは一流リーダーなどと評価されるようなになりました。かみさんや子供にも恵まれて、親孝行もやらせてもらえたのは、ひとえに社長と、社長の先代の指揮のおかげです。もし、できるものなら、生まれ変わってもまた、この会社でお世話になりたいと心底から思っております。社長、本当にありがとうございました。先代の墓前にも今から参るつもりです。」
「山田さん、何度もあなたと衝突して私は眠れないこともしばしばでしたが、あなたがいてくれたからこそ、私もわが社も今なおあるのです。山田さん、私のほうこそ御礼を言いたい。ありがとうございました。」
山田さんは、百万回のねこのように、生まれ変わってもこの人生をやりたいと言う。こんなことを部下から言われた社長は、生まれ変わってもまた、こんな会社経営をやりたいと思うに違いない。
昭和には、こうした物語は無数に実在した。なぜならば、経営を取りまく環境が追い風一辺倒であり、企業が終身雇用と年功序列を維持することができた。未来は今の延長であり、経営者がビジョンを語ることに対しても、それほどの困難はなかった。
ところが。
平成に入り、状況が一変した。
大リストラの時代。能力主義・成果主義の時代にはいり、企業と社員との関係は短期契約が進行。ドライなものに変わった。そのこと自体は悪くないし、昭和の時代をいたずらに懐かしんでいても仕様がない。
平成に入って大きく変わったのは、経営者を取りまく環境であることを認識したい。とくに、ビジョンを雄弁に物語る能力が問われるようになった。そのことは、すでに何度もここで主張してきた。例として、昨年12月2日号をご参照願いたい。
02年12月2日号
http://www.e-comon.co.jp/SampleE-comon/backnumber/021202.htm
もう少しつっこんでみて、「雄弁にビジョンを物語る能力」とは何かを考えてみよう。
・自信に満ちてとうとうと語ることなのか
・細部に至るまで情景描写してわかりやすく語ることなのか
・数字や論理を多用して説得力を増すことなのか
・例をあげて誰もが理解できるように説明することなのか
・・・etc.
いずれもど真ん中の正解とは言えない。
●経営者が語ることばには、「言霊(ことだま)」が必要だ。言葉と言霊とは別のものだ。
そのあたりの掘り下げは、田坂広志氏著『経営者が語る言霊とは何か』に詳しくある。
明日の号では、同著の紹介と、私なりの解釈を加えて続きをお届けするつもりだ。