※この物語はフィクションですが、メッセージはノンフィクションです。
「あら、あなた珍しいわね」 嫁の夢子(ゆめこ)がふり返った。
朝食を終えた木和田琢己(きわだたくみ)が、テーブルの上でめずらしくノートパソコンを開いて何かの文章を打ち込んでいる。最近買ったばかりのシニアグラスをかけ、真剣な表情で入力を続ける琢己。洗い物をしながら夢子は「まるでビジネスマンよ」と冷やかした。
10歳になったばかりの春樹(はるき)も学校へいく支度ができたようで、リビングに降りてきた。
「お父さん何してるの?」
「ん、これか。これは書類や。書類を書いてるんだ」
「なんの書類?」
「国からお金をもらうための書類さ。50万円もらえるんやぞ」
「50万円!すごい。ゲーム買ってくれるの」
「ばか、おもちゃ買うお金やない。仕事にだけ使えるお金なんや」
琢己は名古屋の繁華街で5年前に床屋をひらいた。いままで世話になってきた店からのれん分けするかたちで開業した。家賃のほかに、のれん代もいくらか払う。だが、以前の顧客がついてきてくれたりして琢己本人も信じられないくらい順調な5年間だった。勤め人の時にくらべて給料は2倍近くにもなった。幸せな5年間だったが、満足はしていない。今年40歳の節目をむかえるので、設備投資か集客力向上などで、もうひとつ上のステージに行きたいと思っている。
そんなある日、内装工事業者が「こんな補助金がありますんで、よかったら検討してみてください」とチラシをもってきた。以前にも天井と壁の塗りかえを頼んだ業者だった。
「補助金?うちがお金をもらえるわけ?」
「そうなんです、最大で50万円まで降りますんで、よかったらそれで改装工事とかやってもらえませんか」
「補助金で改装か、いいねぇ。一度検討しておきますわ」
琢己は常連の客から Wish-List の冊子をもらったことがあり、たくさんの夢を箇条書きにしていた。そのなかに、こんな夢がある。
・玄関先の看板を目立つように大きくして集客を2倍にする
・店内のリラックススペースを活用していつも人が集まるサロンをつくる
・日本初のリラックスヘアサロン業態を開発する
・4年に1度のオリンピックイヤーのたびに投資して改装する
自己資金だけでなく補助金を利用することができれば、願望の数々が一気に叶いそうだ。
そのチラシは「小規模事業者持続化補助金」という制度の案内だった。全国商工会連合会が運営しているもので、商工会議所の会員はもとより、非会員でも応募できる。ただし、小規模事業者でなければならない。その定義などはこちらのホームページにある。
→ https://www.shokokai.or.jp/?post_type=annais&p=3224
「うちの床屋でも利用できますか?」
琢己は商工会議所をおとづれ、担当者から説明を聞いた。どんな用途で資金をお使いになる予定ですか?と聞かれたので、店をこのように改装してお客をこのように増やしていきたいと話した。
「そういうことであれば是非申請してください。こちらがその申請書類です」
「結構、書くところが多いですね」
「多くみえますけど、木和田さんには関係ない欄もありますから、そういうところは空欄で構いません」
「いったいどんなことを書けばいいんですか?」
「今、私にお話しになったことをそのまま文章にされたらいいんです」
「いつまでですか?」
「5月13日が受付終了日です。当日の消印があれば結構ですから。結果発表は7月上旬です」
「わかりました。挑戦してみます」
それがリビングでの書類作成の真相である。
アナログ派の琢己にとって不慣れなキーボード打ち。開業したときにもたくさんの書類が必要だったが、大方は誰かに代行してもらった。今度の書類も誰かに作ってもらいたい。代行業者はいないだろうか、などと考えたこともある。Wish-List をくれた男性にも代行を打診したが「それじゃあ意味がないでしょ」と断られた。
幸いまだ20日ある。自分ひとりでやってみることにした。分からないところがあれば商工会議所に出向いて教えてもらおう。税金を使わせてもらうからには労を惜しんでいてはならない。それが Wish-Listを実現するということだし、夢子や春樹を引きつれてひとつ上のステージにいくためのプロセスなんだから。