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凡庸を拒否する

熱狂できること自体が才能だ。熱狂できないのは才能がない証であり、それを凡庸とよぶ。

広辞苑によれば、「凡庸とはすぐれたところのないこと」とあるが、それは一般的な解釈に過ぎない。すぐれたところがあっても、それを活かすすべとして熱狂がともなわなくては凡庸に等しいのだ。

吉田松陰が書き残した書簡のなかに、三人の人物評がある。

『実甫(久坂玄瑞)の才は縦横無尽なり。暢夫(高杉晋作)は陽頑、無逸(吉田稔麿)は陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり
(中略) 常にこの三人を推すべし』

この三人はいずれも非業の最期をとげた。病死の晋作すら、維新革命途上の闘死といってよい。あとのふたりは文字どおり戦死だ。戦死がすなわち熱狂を意味するものではないが、彼らの行動をみるかぎり、志や友への忠義こそが自らの命より尊いものだったに違いない。これすなわち熱狂。

時の勢い(ときのいきおい)と書いて時勢(じせい)と読むが、時勢がつくり出した熱狂であったかも知れない。だが、同じ時代、同じ藩で生きた他の若者たちと彼ら三人の違いは才能にあったのではない。熱狂なのだ。

石原都知事(70)は再選インタビューに応じて、「今まで以上に過激にやります」と語った。この“過激さ”が大切なのだ。

「総じて、人は己に克つをもって成り、自らを愛するをもって敗る」と西郷隆盛は語った。今の状態に満足したり、許容したりすることを自らを愛するという。それは敗北への道だ。そうした類の自己愛は、断固拒否しなければならない。

毎朝ふとんを蹴飛ばして会社へ駆けつけるような熱狂状況をつくりだすことが肝要である。