A社では営業マン B 君 を新たに採用した。皆で B 君の歓迎会という日、「さあ皆さん、グラスをお持ち下さい」と営業部長が乾杯しようとしたそのとき、問題が起きた。
「僕は乾杯はしませんので」当の本人の B 君がそう言ったのだ。
「は?」「え、どういうこと?」「冗談でしょ」周囲はザワザワした。
営業部長も面食らったが、気を取りなおしこう言った。
「B 君、なにがあったか知らないが、今日は君の入社祝いに先輩が集まってくれた。ま、今日ぐらいはみんなに合わせて乾杯したらどうだい?」
「いえ、宗教上の理由ですので」今度は座がシーンとした。
本人が参加しない乾杯で宴席が始まり、営業部長は B 君の横に座った。
「どうしてもダメなのか?」
「はい、固く禁じられています」
「でも営業の仕事だから飲む機会も多いぞ。そのつど乾杯はつきものだけどどうするつもりだ?」
「お酒が禁じられているわけではありませせんので接待などは大丈夫です。ただ乾杯しないというだけですから」
「それが問題だろ」
翌週、営業部長と人事部長と B 君が話し合い、結局は生産部に異動してもらうことで決着がついた。だが生産部には本来欠員がなかったし、すぐにまた営業社員を募集する羽目になったことから、会社としては釈然としないできごとだった。このままでは、今後も同じようなことが起きうるわけだ。社長は、営業部長と人事部長に善後策を練るよう命じた。そこで、二人の部長は社会保険労務士事務所を訪ねることにした。
一連のはなしを聞き終わって労務士はこう言った。
「御社の歴史は半世紀ですが、宗教上の理由で社員を異動させるのは初めてのケースですよね。たしかに営業社員が乾杯できないようでは、接待の空気がこわれるのは間違いない。ただ、あまりナーバスにならないほうがよろしい。だって我々も親族がなくなれば年賀状は出さないし受け取りも遠慮するわけでしょ。忌が明けるまで飲酒しないこともめずらしくない。それもこれもひとつの文化なのですから、文化の多様化を受け入れ、腫れ物にさわるような目で社員を見てはいけません」
ただ、社員の行為がお客さんに奇異の目で見られることは避けたい。そこで社労士は善後策として次のような提案をした。
1.憲法で信仰の自由が認められていますので、特定宗教を信仰しているからといって、それだけの理由で社員を差別したり、解雇することはできません。社会的差別としては、宗教を聞くこと、家族構成、父母の職業、支持政党を聞くことなども禁止されています。
2.ただ、会社にも「採用の自由」が与えられています。もし今回、B 君から「僕は宗教上の理由で乾杯できません」と聞いていたら、「それは困る」と不採用にしたでしょう。特定宗教の信者であることを理由に採用しない自由も会社にはあるのです。
問題は、どういう方法でその事実を聞き出すか、という点です。そこには、工夫が必要なのです。
3.そのために一番よい方法は、就業規則の骨子を面接時に本人に説明し、確認してもらうことです。そのなかに、主義主張信仰に関係なく、社会通念上必要とされている行為は社員に要求します。社員は、それを拒むことはできません、として幾つかの項目を箇条書きにしておくのです。
例として、
・経営理念の唱和 ・国旗掲揚と国家斉唱、社旗掲揚と社歌斉唱
・年間目標、月間目標などの作成、提出、発表
・年賀状、暑中見舞い等の発送 ・社員旅行、親睦会への参加
・社交の席への列席および乾杯(ただし飲酒は強要しません)
などです。
もし「それは困る」という人がいたら、会社に入ってもらわねばよいわけです。
4.また、どのような宗教がどのような行為を禁止しているのかすべて事前に把握できるわけではありませんので、面接時に本人から聞き出すことは可能です。「特定宗教を信仰しておられますか?」は聞けませんが、こういう聞き方ならグレーゾーンではありますが、許容されるはずです。「あなたの主義思想信仰などの理由で特定の行為や飲食などができないとか、特定の行為をせねばならない、ということがあれば前もって教えておいてください」
そうすると、「乾杯できない」とか「定期的に断食せねばならない」とか「必ず正午に礼拝したい」などのことが前もって聞き出せるはずです。
二人は労務士事務所をあとにした。なるほど、ためになった。半世紀を経た会社でも、まだまだ学習せねばならないことがある。
人事部長と営業部長はさっそく就業規則の条項を見なおし、また、面接のあり方について新マニュアルを作成し、社長に提出したのである。