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すべてが「竜馬がゆく」に向かって流れていく

1996年2月12日にこの世を去った司馬遼太郎。今年で没後20年になるが、いまでも全国津々浦々の本屋で司馬の本がたくさん売られている。最近は、Kindle でも司馬の作品が買えるようになり、現役時代の司馬を知らない若者にも読者が広がっているときく。

没後20年記念というわけではなかろうが、文藝春秋二月新春号に司馬の未発表原稿が掲載された。司馬が在籍していた産経新聞の社内報に寄せた「『竜馬がゆく』がうまれるまで」という随筆である。

その内容がふるっている。
さらに、司馬遼太郎記念館館長の上村洋行氏の寄稿文も司馬家の舞台裏を描いていてとてもおもしろい。

上村氏は司馬遼太郎の奥様の弟。司馬家の一員として生活していたこともあり、内情にとてもくわしいわけだ。のちに ”国民作家” といわれるまでになる司馬もこの随筆の昭和38年当時は産経新聞を退社して二年目。小説家として一本立ちできるかどうかギリギリの勝負をしている頃であったろう。

司馬が小説家として独立する前、産経新聞の社長だった水野成夫氏が司馬のところに来て、「こんどは お前さんだよ」という。いままで新聞記者として十数年、新聞を売るために働いてきた。だから、この新聞の読者の顔つきまで知っているはずだ。うんと読ませる小説を書け、というわけだ。司馬が即答を避けていると、つぎに会ったとき「好きなだけ三年書け」と言われた。

三度目にあったとき水野社長は原稿料を司馬に提示した。その金額は司馬の随筆には書かれていないが、別の作者が書いた本によれば、月額100万円の稿料を提示されたという。当時の初任給が17,000円なので、今の貨幣価値に換算すれば1,000万円ほどになる計算だ。べらぼうな金額ではある。

「半分でいい」と執拗に断る司馬。帰って奥さんにそのことを話すと、案の定 激怒したという。奥さんも産経新聞の記者だったので、社員の給料水準を熟知している。だから、「こんな高額を原稿料として出すのはおかしい」とカンカンになって怒ったのだそうだ。

「やっぱり半分にしてほしい」と粘る司馬に対し、水野社長は言い放った。「稿料はこっち側の思ったとおり送る。そのうちの半分、君がどぶに捨てたければ捨てろ」

そのときの司馬の表現がふるっている。
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人はぜにかねでは動かない。ぜにかねの使われかたで人は思わぬ気持ちにさせられるものらしい。(できれば、ほかの連載を一切ことわってでも、産経一つに精魂をうちこもう)
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産経新聞に小説を書く。そう決めた時点でも司馬は『竜馬がゆく』を書こうとは思っていない。いや、竜馬に対して興味すら抱いていない。当時、スケールの大きな大河小説の代名詞が『大菩薩峠』だった。そんな小説を書きますよ、と水野社長には伝えていたが、本人は伝奇小説を書くつもりでいたようだ。

だが翌日になって後輩記者が訪ねてきたところから様相が一変する。高知出身の後輩記者が、「坂本竜馬を書いてほしい」と言うのだ。「何の感興もおこらなかった」とそのときの気分を司馬はいうが、横にいた奥さんの「あたし坂本竜馬が大好きや。女の人、みな、そうとちがうやろか」のひと言で司馬は動きだす。すぐになじみの神田古書店に電話し、竜馬関連の資料を全部急送するように命じたのである。

人は人との出会いによって人生が変わるという。こうしてみると、司馬の場合、産経新聞社との出会い、水野社長との出会い、奥様との出会い、後輩記者との出会い、それらすべてが『竜馬がゆく』を書くために仕向けられているかのようにみえる。

もっと詳しくお知りになりたいかたはこちらをどうぞ。

文藝春秋(2016年二月新春号)
http://e-comon.co.jp/pv.php?lid=4552