★テーマ別★

愚か者

●昨日号『次男の選択』にはたくさんの感想メールを頂戴した。
「感動した」「すばらしい」というものと、諌言・苦言に近いものもまじえた「助言」とに分けられる。

「武沢さんはコンサルタントなのだから、こういうときこそ息子さんが漫画家として成功するようにきっちりコンサルティングしてあげるべきではないですか」というメールがあった。
また、「武沢さんだったら出版社か編集者を紹介してあげられるでしょうから息子さんは恵まれていますね」というのもあった。

だが私はそう思わないし、そうしないつもりである。

●何かを知っている、誰かを知っている、ということは強みにはならない。むしろ反対に、何も知らないほうが断然よいのではなかろうか。

めざすは事情通でもなければ人脈通でもない。そんなうわべの問題で将来が決まるのではなく、まず何よりも本人が「愚か者」でなければならない。誰かを上手に利用しようと最初から目論んでいるようではダメなのだ。

●今年度から中学校教育で武道とダンスのレッスンが必須化となった。はじめてそのニュースに接したときには、「学校でダンス?」と違和感をおぼえたものだが、今は賛成している。自分を表現する方法として踊りを学ぶことは結構なことである。

●ちなみに、私自身は踊りが大の苦手で、フォークダンスと盆踊り以外はやったことがない。昔、なにかの間違いでディスコへ連れられたことがあるが、ボックス席で寿司とビールを注文し、轟音の中でひとり、ずっと爆睡していた。

●「踊りのどこが楽しいのだろう?」「音楽がうるさくて話もできない」そんなディスコやクラブに女の子をさそって出かける若者の気が知れない。男同士で雀荘に行く方がはるかにロマンがある。あいつらは愚か者だ、と思ってきた。

●だがある日、禅の本を読んでいたらこんな一節に出くわした。
愚か者も悪くないな、いや、踊って自分を表現する愚か者こそ私たちがめざす本来の姿じゃないのかと思うようになった。

・・・
中国全土に名をとどろかしていた禅の指導者・洞山(どうさん)のもとに一人の弟子がいた。その名は道膺(どうよう)。
初めて二人が対面したとき、師の洞山はこう聞いた。
「あなたの名は何という」
「道膺です」
「それを超えたところを言ってみなさい!」
「それを超えたところを言うなら、やはり私は道膺です」
師は言う。
「私も自分の師に初めて会ったとき、同じように答えたものです」

やがて道膺は師のもとで悟りをひらき、今度は自分が師として弟子をもつ立場になった。

ある若い僧が尋ねた問いかけに、師の道膺は「お前は愚か者だ!」と答えた。
僧は言い返した。「あなたもです!」
道膺はさらに言う。「『愚か者』の意味はなんだ?」
すると、僧は踊りだした。

僧が去ったあと、道膺は彼をたたえてこう言った。
「なんにせよ、誰もが何かを得ようと努めている。無論、禅の利得は無利得であるが。」(出典『和尚、禅を語る』 訳者:玉川信明)
・・・

●このエピソードの背景にあるメッセージは何だろうか。

それは、知識人より愚か者であれ、のはずだ。
「私は道膺です」とすらすら答えられることがすでに知識人の第一歩である。師がせっかく「それを超えたところを言え」と言っているのに、「やっぱり私は道膺です」としか答えていない。せっかくの実在に言葉をつぎ足す必要があるのか。

●その道膺が弟子を持ったとき、その弟子は、師の問いかけに対してひたすら踊ることで自分を表現した。
あなたは誰だ、と聞かれたとき無垢の踊りで自分を語るか、もしくは沈黙で答えることが正しい態度だろう。

●世の中は知ってもらいたい、認めてもらいたい、という人や会社であふれている。ビジネスは知ってもらってナンボ、認めてもらってナンボ、という部分もあるが、有名になることや、承認されることがゲームのゴールではない。実在することが何よりも求められるはずだ。
あなたの実在の結果として有名になることや、承認されることは結構だ。そのためには、あなた自身がハートに問いかけることだ。

「私は誰か」と。

●『和尚、禅を語る』の著者はこう語る。
・・・
「知ること」は頭脳のためである。だが「知らないこと」はハートのものだ。それはついには実在そのものに至る。
・・・

頭脳の働きをとめて、ハートで行動する「愚か者」を目指そう。