Rewrite:2014年3月26日(水)
松浪 悟(まつなみ さとる、仮名)が 40歳になったとき、勤務先の東栄百貨店(仮名)が香港駐在員を募集した。婦人服バイヤーだった松浪はすぐに立候補した。当時、人事に立候補することなどあり得ないことだったが、何としてでも香港に行きたいと松浪は決死の覚悟で副社長に直談判したのだった。
執念が実り、駐在が決まった。その翌年、「将来は家族も呼んで香港に住む」と決めた松浪は、頭金300万円で 1,000万円のマンションを買った。そして、当座は人に賃貸することにした。住居人は中国人経営者の張 洲民社長(仮名、32歳)だった。張社長は29歳まで日本の会社で働き、帰国後香港で独立した。日本向けに、大理石などの建築資財を輸出するのが主な仕事だった。日本語も堪能で、いつも身なりがよく礼儀正しいことから松浪は張社長を信用し賃貸契約をむすんだのだった。
しかし、半年後から家賃の支払いが滞るようになった。会って事情を聞くと、日本の大口客の一社が倒産し、数百万円の代金が未収のまま焦げついたという。東京に営業所をつくって日本人社員を採用した直後でもあり、経費もかさんでいた。売上も半減したため、損失を取りかえそうと張社長は株式投資に手を染めたが、それがアダとなって傷口を大きく広げてしまったという。
「で、どうするんだ」と松浪が聞くと、驚くべき言葉が張社長から発せられた。
「死んでお詫びしたい」
「バカかお前は」 思わず松浪はそう言った。香港では日本より自殺率が少ないが、張社長の母国・中国では日本よりそれが多いことを松浪は知っていた。
「金がないことぐらいで人生を悲観してどうする」 いつしか松浪は家賃の督促よりも張社長を励ます立場に変わっていた。
責任感の強い張社長はこう言った。
「30を過ぎた男がお金の問題で人に迷惑をかけるというのは最大の恥です。生きている資格がありません」
「お前はどこまでバカなんだ。そういう考え方をする人間が日本に多いのは分かっていたが、中国にもいるのか」と松浪は驚いた。
「他の人のことは知りませんが、僕の常識はそうです」と張。
松浪は、婦人服バイヤーとして無数の企業経営者を見てきたが、もっと無責任でちゃらんぽらんの人間が平気で世の中を渡っているのを知っていた。
「いいか張。死のうなんてバカもやすみやすみ言えよ。何があっても平気で生きていくのが人間だろうが」
「平気でいられません。苦しいんです。夜もねむれません。幸い独身ですし親も痴呆なので悲しむ人はいません」
「そんなことを考えるなんて人間ができてない証拠だぞ。いいかお前、かりそめにも経営者なんだろう。だったら事業の損は事業で取り返せよ。それぐらいの気概がなくちゃ社長と言えんだろう」
結局、松浪は半年の猶予を与えることにした。
張はその月から毎月、売上や利益の速報を松浪のオフィスに FAX すると約束した。4ヶ月めでようやく一月分の家賃を払いこみ、5ヶ月めからは二ヶ月分の家賃を払えるようになり一年以内にすべて精算した。
その 14年後、松浪が 55歳になったとき東栄百貨店から独立し、貿易会社「スモールサン有限公司」(仮名)を立ち上げる。その最初の客先が張の会社であり、毎月多額の収益がスモールサンにもたらされることになる。それどころか、松浪の長男・豊が中国に留学したときには、張社長の本社(その当時はチンタオ)がある大学を選び、公使ともに世話になっている。
今年 71になる松浪は張社長をこうふりかえる。
「香港に来て 30年、自分のことしか考えていない人間を多くみてきた中で、自殺をほのめかすほど気まじめな中国人経営者はほとんどいなかった。それほどまでに自責の念が強い人間だからこそ、きっとこいつはモノになると俺は思った。案の定、張君はその分野で中国ナンバーワンの会社を作った。そして、俺の数少ない中国人盟友の一人になった。何歳になっても失敗や挫折はつきものだ。そのとき大切なことは、自分を責めるのではなく、仕事の損は仕事で取り返す気持ちをふるいおこすことが大切なんだ」
※この話は、実話を元にした電子書籍小説「企業家列伝」シリーズの『アジアの小太陽』(下巻)より抜粋し編集したものです。