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食客三千人

●中国の春秋戦国時代とは、紀元前770年から紀元前221年までをいう。
秦の始皇帝が中国を統一したことにより、数百年つづいた春秋戦国の世がようやく終わった。
この戦国末期においては、諸国の王を補佐する宰相のもとに、たくさんの知勇の持ち主があつまってきた。

●「食客三千人」ともいわれ、宰相たちは食客を数千人も養ってイザという時に備えていたというから、大した度量である。

戦国の混乱期はどんな才能が役に立つか分からないもので、鳥や犬の鳴き声がうまいというだけの才能しかない盗賊たちも食客の扱いをうけ、宰相から「先生」とよばれた。そんな彼らが、後になって国を救うわけだから、縁の妙というしかない。

●有名な宰相には、斉の孟嘗君(もうしょうくん)、楚の春申君(しゅんしんくん)、趙の平原君(へいげいくん)などがいるが、魏の信陵君(しんりょうくん)は、『史記』の著者・司馬遷(しばせん)が「当時、信陵君の名声が諸侯随一であったことは、決して虚名ではない」と最大限の賛辞をおくっている。

●信陵君とはどのような賢人であったかを伝えるこんな逸話が史記にある。

信陵君、性格は情に厚く、賢者にも愚者にも謙虚であった。あるとき、信陵君は無名の賢者がいるとの噂を耳にした。それは、夷門(東門)の門番をしている侯生(こうせい)という70になる老人である。信陵君は自ら侯生老人を訪ね、自分の食客になってくれるよう頼んだ。

すると侯生は、「私は年老いており、しがない門番の身です」と一度は辞退した。だが信陵君の熱意に負け、結局、世話になることになった。

信陵君は大いに喜んで、侯生のために宴席を設けることにした。
宴会当日、自ら侯生を迎えに行ったところ、侯生はぼろぼろの衣冠をつけて信陵君の車に乗りこんできた。しかも、当然のように上席についた。

宴席が行われる屋敷では、魏の国の公子や大官、将軍、有力な食客などが信陵君と侯生の到着を待っていた。だが、屋敷に向かう途中、侯生はこう言った。

「ちょっと友人に用があるので、車を市場に回してくださらんか」

市場の肉屋で働く朱亥(しゅがい)も尋常ならざる知と勇のもちぬしだという。宴会場の様子も気になるが、信陵君は笑顔を保ったまま、車を市場に回した。

往来の雑踏を割りこんでいくと、やがて朱亥の姿があった。ひとりで車を降りた侯生は、そこで長々と立ち話をはじめた。車に信陵君を待たせたまま延々と談笑がつづくので、信陵君の従者や市場の人たちまで侯生を批判しはじめた。

その批判を知りつつも、朱亥との立ち話をやめない侯生。ときどき、車上の信陵君の様子をうかがっている。信陵君のほうでも、自分が試されていることを察しているから、温雅な表情を保ったまま車上で待った。

すると侯生はあろうことか、「この人が先ほど、私がお耳にいれた友人の朱亥です」と路上から車にむかって大声で話しかけた。当時としては最大級の非礼である。

だが信陵君は車から降りてきて、朱亥にむかってうやうやしく敬礼し、「どうか先生も私の賓客になっていただきたい」と乞うた。
ところが朱亥はそっぽを向き、返事すらしなかった。食客になることは、すなわち相手のために死ぬことをいとわない約束をしたに近いからである。結局、朱亥は車に乗らなかった。

信陵君と侯生のふたりは宴会場に到着した。信陵君自ら侯生の手をひいて上座にすえた。

宴がすすみ、皆で侯生を歓迎し長寿を祝った。すると、侯生は立ち上がり、信陵君にむかって「公子よ」と言い、こう続けた。

「あなたは私にずいぶん厚く遇してくださっているが、それ以前に私の方は、すでにあなたのために尽くしていることにお気づきだろうか。
あの市場の雑踏で私はあなたを車上に待たせたまま朱亥との立ち話にふけった。
そのとき、あなたはうやうやしい態度をとりつづけ、市場の人たちの尊敬を集めることができた。それにひきかえ、あの侯生はしょせん門番ふぜいの小人にすぎないと皆が私を批判した。このことは、私が人を市場におくってすでに調べてあるから間違いない」

私は自分がしていることのすべてを分かってやっているのだと侯生。

宴会場がシーンと静まりかえる中、信陵君はおもむろに立ち上がって返答した。

<明日につづく>