●「踊りに行こうよ 青い海のもとへ 二人で唄おう 明るい恋のリズム ・・・」
カーラジオから流れるザ・タイガース沢田研二の歌声。
1968年、14歳の夏休みに家族で海水浴に行った。車のラジオから流れるジュリーの声に当時若かった母はノリノリの上機嫌。中学2年の私も小学6年の弟も夏休みを謳歌していた。(もっとも弟は車酔いで青ざめてはいたが)
●そこへ運転していた父が何を思ったのか、左手を伸ばしてラジオの選局を変えてしまった。
スピーカーから流れてきたのは「ウォー」という大歓声。夏の高校野球甲子園大会の実況中継だった。
「なによ、お父さん、せっかくいいとこなのに・・・」と母。父はいつものように言葉すくなく「高校野球や」とだけ言った。
●しようがなくラジオに聞き耳を立てていると、箕島(みのしま)高校の東尾修投手が投げていた。解説者がしきりに「東尾君、すごい」と連発している。その年、初出場ながら箕島高校はベスト4まで進んだ。
●その秋、西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)からドラフト一位指名を受け、パリーグを代表するエースになる東尾投手。最近はプロゴルファーの娘さんがタレントと結婚した。
●和歌山に箕島(みのしま)あり。
箕島高校はこの大会で鮮烈デビューし、のちに春夏あわせて四度の甲子園全国制覇を果たす。
それは、ひとえに同校野球部の尾藤公(びとう ただし)監督の指導力によるものと言いきっても良いだろう。
●もともとは京都の平安高校に行く予定だった東尾投手を「一緒に甲子園に行こう」と口説きおとした。
「優勝を4回したが、ベスト4に終わった東尾のチーム(1968年)が最強だった。それでも優勝できなかったのは自分の経験不足のため」と語っている。
●その尾藤監督(68)が昨日亡くなった。
ぼうこう移行上皮がんだった。後輩監督が口々に悼んだ。
・智弁和歌山・高嶋仁監督(64)
ぼくも奈良の智弁学園から和歌山に来て、全然尾藤さんに勝てなくて、尾藤さんに勝ちたい一心でやってきた。今あるのは尾藤さんのおかげだと思っています。
・元PL学園監督の中村順司・名商大監督(64)
あこがれの監督でした。僕が高校全日本の監督を務めた98年も選手選考で助けていただいた。そのとき、取材を受ける態度がよくないと言われていた敦賀気比
の東出君(現・広島東洋カープ)を「彼はいい選手や。マナーは教えてやればいい」と勧めて下さった。実際好選手で、チームの中心でした。選手を見る目も素
晴らしかった。
・帝京・前田三夫監督(61)
私たちの目標であり、憧れの監督さんでした。「尾藤スマイル」で有名になられた方ですが、正直あんなに笑って試合に勝てて、いいなあと若いころはうらやま
しく思いました。それを目指してやってきましたが、なかなかスマイルは出せなかった。グラウンドでは優しい顔ですが、高校野球の姿勢には厳しい考えをお持
ちでした。教育の一環として、常に「正しくあれ」という姿を追い求めていた。
その心構えを教わりました。
・明徳義塾・馬淵史郎監督(55)
大事なところで選手を信じてどっしり座り、笑顔が印象的だった。
勝負に臨む時の顔が実にいい顔だった。こういう監督は2度と出ないかもしれない。
●箕島高校と79年夏の3回戦で激突した星稜高校(石川)。
延長18回の熱闘は、高校球史に残る名勝負といわれている。当時、星稜高校の監督だった山下智茂氏(66)は、そのときの思い出をこう語る。
「18回の激闘、出会いには感謝しかない。人生観、野球観を変えてくれた人生の宝のゲームです。雲の上の方で僕には偉大すぎる方でしたが、その後も兄貴のように教えていただいて…」
●ちなみに尾藤監督は1966年、23歳の若さで監督就任し、スパルタ練習によってわずか3年目の春に同校を甲子園へ導いた。
スパルタは成果があるように思えた。
だが、甲子園ベスト4のあとは成績が伸び悩んだ。そして1970年代前半に指導法に対して信任投票があり、その結果責任をとって一度監督を退いている。
●同校を退任したあとボウリング場に勤務し、接客業などで人間的に学ばれた。そののち、再び乞われて箕島高校野球部監督に復帰してからは、選手の希望もあって練習の厳しさは変えないものの、試合中はいつも笑顔で接するようにした。それによって選手達はのびのびとプレーできるようになったという。その微笑みは「尾藤スマイル」として高校野球ファンにおなじみとなり、他校の高校野球指導者にも大きな影響を与えた。
●2009年2月、その尾藤公さんが「私と箕島野球」という演題で地元で講演されている。その内容は感動的なエピソードにあふれたものだった。
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1966年、23歳で母校の硬式野球部の監督になった。甲子園に行くには名門の2~3倍は練習しなければ追いつかないと、厳しく激しく練習して行き過ぎたこともあったと思うが、ある意味で生徒に恋し、恋愛をしていたようにも思える。子どもたちが何を考えているのか知りたかったし、自分の気持ち、何を考えているかも知って欲しい、という気持ちでいっぱいだった。
また、野球は、ボールがゴールに入って得点するサッカーやバレーボールなど他の球技と違い、人が塁を進み本塁に入らないと得点が入らない独特な競技。そのため、バンドが重要な役割を果たす。仲間を次の塁に進め、チームの勝利のために自分の打ちたいという気持ちを抑え、犠牲バンドをする。そうした「フォー・ザ・チーム」の精神が必要だ。
バントの心は、「おかげさんで」や「感謝」につながり、ひいては、「家族や地域や、国や世界、地球のために何か役に立ちたい、貢献したい」という心につながっていく。
1979年夏の星陵高校戦、1点を勝ち越され延長12回裏2アウトで無走者になったとき、ぼく自身が「もうおわり」と試合をあきらめかけた。
負け試合の監督インタビューを考え出したそのとき、最終バッターの嶋田宗彦選手がなぜかベンチに戻って来た。
そして突然、「ホームランを狙ってもいいですか!」と大きな声で聞いた。
そのときは、「ホームランなんて言って、打てなければチームのみんなに大恥をかくのに何を言っているんだ」と発言の意味がわからなかった。しかし、すぐにハッと気づいた。
彼は、キャッチャーで守りの要で洞察力もある男。
いつも「最後の最後まであきらめるな」といっている私が、弱気になって試合をあきらめているのを、以心伝心、気づいていたのだ。彼は監督とチームに「元気を出せよ!」「まだ終わってないやないか」と喝を入れに来たのだと。
こんな状況で喝を入れること自体すごいことだが、嶋田選手は有言実行、実際にホームランを打ってチームの絶体絶命のピンチを救ってくれた。まさに神がかりだった。
選手からの喝で目が覚めた私は、18回までたたかう闘志を取り戻した。
延長18回の激戦を制したあとの宿舎でのミーティングでは、選手たちが正座して号泣していた。私も言葉にならなかった。
選手たちは泣きながらも目はきらきらと輝いていた。選手と私が心で通じ合っていることを実感した。そのチーム一体感のなかで、準々決勝、準決勝、決勝と勝ち進むことができ、春夏連覇につながった。
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●高校野球関係者だけでなく我々に与えた影響は計りしれない尾藤公監督。ご冥福をお祈りいたします。
<参考>
※日刊スポーツコム
→ http://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/p-bb-tp3-20110307-745590.html
※和歌山放送社長ブログ
→ http://wbs-ceo.sblo.jp/article/26769817.html