●名古屋にいると、河村たかし市長をテレビで見る機会が多い。
縁あって私は氏が国会議員になる以前から存じ上げている。20年ほど前に、あるパーティでお目にかかったときの第一印象はよくなかった。
私の隣にいた年配経営者にペコペコし、横にいる私にはひと言も声をかけないどころか、一瞥もくれなかった。同じ一票を持つものとして「バカにするな」とそのとき思った。
●案の定、そのときは落選した。その3年後の1993年に初当選。
当時から「名古屋から総理を狙う男」と公言し、民主党員になってからも代表選に名乗りをあげた回数は数知れず。名古屋ッ子でも使わない名古屋弁を駆使し、「永遠の総理候補」、「民主党代表選の風物詩」などとうれしくないレッテルを貼られていたこともある。
●そんな河村氏も2年前から名古屋市長。
最近62歳を迎え、名古屋の顔として風格がでてきたように思うのは私だけだろうか。
河村市長誕生以前から東京や長野、宮崎、大阪、千葉などでタレント首長が活躍していた。マスコミも彼らの言動をとりあげる、必然的に地方の発言力が増している。そのこと自体は大いに結構なのだが、自分の実力をちょっと勘違いして、「徳」が薄らいでいくタレント首長もいるようだ。当選したころに備わっていた「愛敬(あいけい)の徳」を失いつつあることに本人は気づいていないのだろうか。
●「政治の根本は愛敬の徳にある」と説いた中江藤樹。
愛敬と書いて「あいけい」と読む。孝のみちをおしえた『孝経』(こうきょう)を毎朝素読するのが日課だった藤樹ならではの教えである。
「親を愛する者は人を憎(にく)む事がなく、親を敬(けい)する者は人を侮(あなど)る事がない」と愛敬の大切さを説いた。
特に政治を司るものの根本に愛敬の精神がなければ、仁者として人がついてこない。
●愛敬(あいけい)がないリーダーはどうするか。
おのずと、「殺罰(さつばつ)のことをもって天下をおさめてしまう」と藤樹。
要するに、殺す・罰するという恐怖政治をやりがちになるというのだ。
「恐怖政治」の反対は「大衆迎合政治」や「ばらまき政治」。それらも自信のなさのあらわれで、形をかえた「殺罰」政治といえなくもない。
●愛敬(あいけい)で人がついてくる政治家になろう。
愛敬で人が動かせる社長になろう。愛敬がある会社になろう。愛敬がある社員を育てよう。愛敬をもってお客と接しよう。そうすれば愛敬がある国になる。
愛敬(あいけい)と愛嬌(あいきょう)とは別物だ。
愛敬とは、相手を愛して憎むことがない。
相手を敬ってあなどることがない。
●そのためには、まず自分自身を愛せねばならないし、自分自身を敬えることが大切だ。それに値する自分をまずつくることである。