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悪人社長

●先日、親せきの法事があって岐阜まででかけた。

真宗大谷派の”ご縁さん”(住職のこと)にお経をあげていただいている間に、焼香盆がまわってきた。宗派によって焼香の流儀がちがう。
“郷にいれば郷に従え”なので、私は前の人たちのやり方をそのまま真似た。

●昼食のとき、焼香のやり方についてご縁さんに伺ったところ、私はいままで間違ったやり方をしていたと気づかされた。
抹香をつまんでそれを目の高さに持ち上げるまでは良いのだが、その時、手首を返して指を自分の方に向けていたが、それが誤りらしい。

⇒ http://allabout.co.jp/gm/gc/71891/

●「え、そうだったんですか?」と驚く私。「間違ったやり方をしていてはバチが当たりますね」と言うと、ご縁さんはニコニコしながらこう言った。

「大丈夫です。悪人正機ですから」

「悪人しょうき?悪人ですか、私は」
「はい、悪人ですよ」
「ひどいなぁ。たしかにその通りですが・・・」と私。

●悪人といわれて悔しかったので自宅に戻って調べてみた。すると、ご縁さんがいう悪人には、こんな意味があると知った。
以下、ウィキペディアより。
(※ウィキペディアの「悪人正機」の記事は現在、削除審議中らしい)

・・・悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「悪人こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。
・・・
★悪人正機
→ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E4%BA%BA%E6%AD%A3%E6%A9%9F

●要するに「悪人こそが救われる」という意味らしい。

ただし、道徳的な意味や法的な意味での悪人ではないようだ。私たちの一般常識の悪人ではなく、仏の視点による善悪判断すらできない凡夫すべてが悪人なのである。
その反対の「善人」とはどういう人か。それは、自力の善行を積み重ねることで救われようとする人のことである。それは、「すべての衆生を無条件で救おう」とする阿弥陀の本願心を疑う行為とみられるので、結果的に「善人」は救われない。やっぱり「悪人こそが救われる」のである。

●それを知って、私は「悪人で良かった」と思った。これから悪人と呼ばれたら胸を張ろう。
かといって、「だったら積極的に悪事をはたらこう」と考えることは、”本願ぼこり”と言って避けねばならない。

●私が苦手な人は善人だ。
酒は飲まない、タバコも吸わない、無駄なことに時間とお金は一切使わない。決めたことは必ず最後までやり遂げる、というタイプの人だ。

それだけでなく、「良いことをして悪いことをしないのは当たり前のことだ。なんであなたはそれが出来ないの?」と攻撃する人はもっと苦手だ。そんな善人は中小企業で働いてはならない。

●中小企業は悪人を採用しよう。当然、社長業にふさわしい人とは、悪人である。できれば大悪人がよい。

できない人の心が分からない善人が社長をやってはいけないのだ。

めざせ!悪人
アンチ!善人