●剣の相手として、「人間よりも小枝の方が厄介だった」と宮本武蔵。
師匠も仲間ももたなかった宮本武蔵は、林でひとり練習した。練習法は独特で、適当な枝を何十本も縄でぶら下げ、それらを手当たり次第なぐりつけていくというもの。
はね返ってくる枝に当たらないように間合いをはかりながら打ち込みを続ける。かなり上達しても小枝に打たれることが何度かあった。
●この練習法のおかげで、武蔵は現場で強かった。何しろ無敗だったのだから。
決闘の場面で、人間の打ち込みをかわすのは小枝をかわすより簡単だった。なぜなら、決闘相手には心がある。その心は恐怖心であったり、敵愾心であったりするが、どちらにしろ心から発する「気」が武蔵に伝わってくる。その点、小枝は無心なのでかわすのが困難だったと晩年に述べているのだ。
●それを知って私はピーンときた。
要は、私たちも小枝になればよい。無心に相手にぶつかってゆけば良いわけだ。
荘子に出てくる『木鶏』(もっけい)のたとえでは、一番強い闘鶏の鶏は、まるで木で出来ているようなものだったと言われる。
木鶏について、ちょっとおさらいしておこう。
・・・
紀省子という闘鶏飼いの名人が、王様から一羽の闘鶏の訓練を命じられた。 十日も経ったころ、王様が訓練の様子をたずねに来た。
「どうだ、もうそろそろ使えるのではないかな?」
すると紀省子は答えた。
「いや、まだでございます。今はやみくもに殺気だって、しきりに敵を求めております。」
それから十日経って王様がたずねると、「いや、まだでございます。他の鶏の鳴き声を聞いたり、気配を感じたりすると、にわかに闘志をみなぎらせます。」
また十日経って王様がたずねると、「いや、まだでございます。他の鶏の姿をみると、にらみつけ、いきりたちます。」
さらに十日たって王様がたずねると、今度はこう答えた。
「もうよろしゅうございましょう。そばで他の鶏がいくら鳴いても挑んでも、いっこう動ずる気配もなく、まるでちょっと見ると、木で作った鶏としか見えません。これこそ徳が充実した証拠です。こうなればしめたもの、どんな鶏でもかないっこありません。姿を見ただけで逃げ出してしまうでしょう。」
●果たして武蔵がこの『木鶏』の話を知っていたかどうか。
私たち人間には「心」がある。木のように無心になれといっても無理なのは分かっている。だが、木に近づくことはできる。
それは、「心」をなくそうとするのでなく、「心」を透明に近づけていくことだ。
我欲をなくすのではなく、我欲の次元を高め、ピュアなものにしていくことだと思う。
●中村天風師は、「人間の欲望には二種類ある。苦しい欲望と楽しい欲望のふたつだ。本能の満足、感覚の満足、感情の満足、理性の満足を満たそうというのは終わりがないので苦しい欲望になる。一方で、無私で人を喜ばせることに満足を感じる”霊性の満足”は、飽きたり尽きたりすることがないので、楽しい欲望である」と言う。
●霊性の満足をもとめることは「無私」に近い。
霊性の満足をもとめてぶつかってくる相手が武蔵にとっての「小枝」であり、闘鶏にとっての「木鶏」なのだろう。
目標を手に入れたいと思うのは当然のこととして、大切なのはその心。
透明度を高める自己訓練にある。
合い言葉は「めざせ!小枝」。