文庫本で20ページ程度の短編で終わるはずだったが、発表と同時に好評を博し、ついには文庫で540ページを超える分量の長編小説になった。ただ、構想と筋書きがないので本来の小説といえないのかも知れない。
●猫に人間を語らせるという漱石の「奇抜」なアイデアが大ヒットし、一躍スターダムを上り詰めた漱石。
アイデアが奇抜だっただけでなく、この作品に登場するのはいずれ劣らぬ「奇抜」な人ばかり。人間って本来、こんなにも「奇抜」なんだと改めて感心する。
次のような箇所が(五)に出てくる。(字体は今日のものに改めた)
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主人の癖として寝る時は必ず横文字の小本を書斎から携えて来る。然し横になってこの本を二頁と続けて読んだ事はない。ある時は持って来て枕元へ置いたなり、まるで手を触れぬ事さえある。一行も読まぬ位ならわざわざ提げてくる必要もなさそうなものだが、そこが主人の主人たるところでいくら細君が笑っても、止せと云っても、決して承知しない。毎夜読まない本を御苦労千万に寝室まで運んでくる。ある時は欲張って三四冊も抱えてくる。(中略)
して見ると主人に取っては書物は読む者ではない眠を誘う器械である。
活版の催眠剤である。
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その後、3ページ以上にわたって夫婦の寝相を書いているのだが、これがまた巧み。いったい世の作家で誰が夫婦の寝相だけでそれだけの分量を読ませることができるだろうか。
●主人の珍野苦沙弥(ちんの くしゃみ)は中学の英語教師。
妻と3人の娘がいて、偏屈な性格で胃が弱くノイローゼ気味である。あきらかにこれは、漱石自身がモデルである。そんな彼の「奇抜」さはまだまだある。
・・・(主人の)書斎は南向きの六畳で、日当たりのいい所に大きな机が据えてある。只大きな机ではわかるまい。長さ六尺、幅三尺八寸高さこれに叶うと云う大きな机である。無論出来合のものではない。
近所の建具屋に談判して寝台兼机として製造せしめたる稀代の品物である。何の故にこんな大きな机を新調して、又何の故にその上に寝てみようなどという了見を起したものか、本人に聞いてみない事だから頓とわからない。ほんの一時の出来心で、かかる難物を担ぎ込んだのかも知れず、或はことによると一種の精神病者に於て吾人がしばしば見出す如く、縁もゆかりもない二個の観念を連想して、机と寝台を勝手に結び付けたものかも知れない。とにかく奇抜な考えである。只、奇抜だけで役に立たないのが欠点である。吾輩はかつて主人がこの机の上へ昼寝をして寝返りをする拍子に縁側へ転げ落ちたのを見た事がある。それ以来この机は決して寝台に転用されない様である。
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●漱石に触発された三島由紀夫が中学生のときに『我はいは蟻である』(昭和12年)を書いている。生まれたばかりの働き蟻が主人公。初めて見る陽光の眩しさや人間の皮膚はすべすべして白く、人間の住む家はあまりに大きくて、主人公の視野にはおさまらない。それから、重いビスケットを運んだり、敵対する蟻の存在を老いた蟻に教わったりして、自分の家に帰るというストーリーである。
●芸術を愛した三島が好んだ作者が俵屋宗達。その理由は「奇抜」さであった。
宗達の代表作『風神雷神図』は見る人をハッとさせるが、それは「奇抜」な構図にあると絶賛した三島。
★風神・雷神図 ⇒ http://e-comon.co.jp/pv.php?lid=2430
●「奇抜」とは、きわめて風変わりで人の意表をつくこと。
・何かを始めよう
・何かを選ぼう
・何かを作ろう
そうしたとき、「そのどこが奇抜」なのかをリトマス試験紙にしようではないか。