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十住心論

●日曜日の昨日、大垣の実家で亡父の17回忌をおこなった。二十歳前後になる子供たちも礼服・ネクタイ姿になると急に大人びて見えるものだ。

法事は、浄土真宗・大谷派(東本願寺)なので「無量寿経」、「観無量寿経」、「阿弥陀経」の浄土三部経を読経していただく。そして最後に法話をお聞きした。それはこんな内容だった。

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漢字の門構え「門」という字のなかに「耳」の字を入れれば何という字になる?そうやぁ、「聞」くという文字になるがね。
ところが、「耳」の代わりに「音」という字を入れて見なされ。今度は「闇」になってまうがね。家のなかにいても互いにイヤホンを耳につっこんで音楽ばっか聞いとってみやぁ、本当の声が聞こえてこんようになる。すると、みんなが「闇」になってまう。

ええか、正しい教えにはもっともっと耳を傾けないかん。できれば、「耳」は縦方向に書くんやのうて、斜めに書くともっとええがな。そうすれば、「聞く」ではなくて耳を傾けるほうの「聴く」になるからや。

あんたがたのおじいちゃんの虎夫さん(亡父)がこうして親せき一同を集めてくだはって、心をひとつにしてお釈迦さんや親鸞さんの教えに耳を傾けることができるようにしてくれやしたんや。感謝せなあかん。こうして在家で法のお仕事をするのが「法事」、これをお寺でやったら「法要」って言うんや。
「法事」の時だけやのうて、一人で仏壇の前に座って「正信偈」(しょうしんげ)だけでも読み上げればいい。そうしたら「闇」から「聞」にかわれる、ええな。ほんじゃ皆さん、さいなら。またいつか元気にお会いしましょ。
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●さて、今日は前号に続いてクローバ経営研究所の月例・マンダラセミナーで学んだことを書いてみたい。

すでに述べたとおり、密教の二大教典は『金剛頂経』(こんごうちょうきょう)と『大日経』(だいにちきょう)である。

『金剛頂経』の世界を表したものが「金剛界マンダラ」で、『大日経』の世界を表現したのが「胎蔵界マンダラ」であるということは既述のとおり。

●「金剛界マンダラ」は、人の心の中味をビジュアル化したもので、心の本質、つまり「唯識」(ゆいしき)を表現した。
一方の「胎蔵界マンダラ」は宇宙の本質、つまり「空」(くう)の豊かさを映像化したものであるとも述べた。

●さて、胎蔵界マンダラの原典『大日経』の漢訳本は七巻からなり、第一巻は「入真言門住心品第一」(略称・住心品、じゅうしんぽん)という。
第二巻以降は実践を説いているものなので、この第一巻の「住心品」で『大日経』の思想体系がほぼ解き明かされているそうだ。

●その「住心品」に”三句の法門”(さんくのほうもん)という言葉がでてくる。

「仏ののたまわく、菩提心を因と為し、大悲を根とし、方便を究境となす。」という。その意味はこうなる。

菩提心(ぼだいしん、悟りを求める心)を出発点とし、大悲(たいひ、人の苦労を抜くことができる慈悲の心)を基本とし、方便(ほうべん、おしえの具体的な応用実践法を使いこなすこと)が最高である、という意味だ。

私なりにさらに意訳すれば、「深淵なる真理をもとめつつ、世のため人のためになりながら、あらゆる最新鋭の技術や戦術論を駆使することが正しい経営のあり方である」となるがいかがだろう。

●また空海はその『大日経』の「住心品」から、人には十段階の心のレベルがあると「十住心論」を体系化した。それを、830年に淳和天皇に贈っている。

まるっきり善悪の判断もできないような最低の心の持ち主を、最も程度の低い「第一住心」として、それからだんだんと心の持ち方が向上していって「第二住心」、「第三住心」と数を増して位を上げ、最高の「十住心」までを説いた。

あなたはこの十段階のどこにいるだろうか。

●第一住心 異生羝羊心 (いしょうていようしん)

「凡夫狂酔して、吾が非を悟らず。但し淫食を念うこと、彼の羝羊の如し」
ぼんぷきょうすいして、わがひをさとらず。ただし、いんじきをおもうこと、かのていようのごとし

・・無知なものは迷って、自分の迷いに気づいていない。まるで雄羊のように、ただ性と食を思い続けるだけである。

●第二住心 愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)

「外の因縁に由って、忽ちに節食を思う。施心萌動して、穀の縁に遇うが如し」
ほかのいんねんによって、たちまちにせつじきをおもう。せしんほうどうして、こくのえんにあうがごとし

・・人に言われて善悪は理解できる。両親や友人、国のことを自然に思う心がめばえる。儒教的道徳倫理が芽生える段階。

●第三住心 嬰童無畏心(ようどうむいしん)

「外道天に生じて、暫く蘇息を得。彼の嬰児と、犢子との母に随うが如し」
げどうてんにしょうじて、しばらくそそくをう。かのえいじと、とくしとのははにしたがうがごとし

・・絶対者に帰依した、不安のない精神状態。宗教心が芽生えた段階。
幼児や子牛が母に従うように安らぎを得るが、それは一時的なものにすぎない。

●第四住心 唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)

「ただ法有を解して、我人みな遮す。羊車の三蔵、ことごとくこの句に摂す」
ただほうゆうをげして、われひとみなしゃす。ようしゃのさんぞう、ことごとくこのくにせっす

・・ただ物のみが実在することを知って、個体存在の実在を否定する。教えを聞いて悟る者の説はみんなこのようなものだ。
思わぬ縁によって仏教に出くわし、仏教を学び始める段階。いわゆる禅に云う十牛図の「尋牛(じんぎゅう)」の始まり。声聞(仏様とくにお釈迦様の言葉を聞いて悟る者)の境地。

●第五住心 抜業因種心(ばつごういんしゅしん)

「身を十二に修して、無明、種を抜く。業生、已に除いて、無言に果を得」
みをじゅうににしゅうして、むみょう、しゅをぬく。ごうしょう、すでにのぞいて、むごんにかをう

・・一切が因縁からなっていることを体得して、無知のもとをとりのぞく。迷いの世界を除きただひとりで、さとりの世界を得る。
「十二因縁」を観じて「苦」の原因である「無明」の種をとり除く段階(縁覚)。

<第六からは、明日につづく>