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富山旅行記

●立春を過ぎたものの、寒さはこれからが本番。先週土曜日におとづれた富山市でも豪雪の出迎えをうけた。
名古屋から富山までは3時間半の列車旅。窓外はずっと横なぐりの雪。
幸い列車は10分遅れぐらいで到着したが、富山から新潟へ向かう北陸本線や越後線では運休した列車もあった。

●今回の旅の目的は、本場・氷見の寒ブリを堪能することと、少しでも富山に詳しくなること。
そこで、富山市でリフォーム業と営業コンサルを営んでおられるコバヤシ総合の小林泰範さんに無理をいって二日間おつきあいいただいた。

●まず富山といえば、女性がよく働くことで有名。
そのせいで共かせぎの夫婦が多く、持ち家比率日本一の座を50年間にわたって保持してきた。昨年、その地位を秋田県に奪われたことは、富山県民の大きな話題となったようだ。

いずれにしても80%近い人が持ち家に住んでいて、一世帯あたりの住宅面積も日本一なのだから豊かな県である。

●それ以外にも富山にはいろんな日本一がある。

・蜃気楼を日本で一番よく見ることができる(4~5月の平均)
・熊本県と並んで水が日本一おいしい(名水百選などの数)
・火事が少ない(人口一万人あたり2.46件)
・老人クラブ加入率が高い(61.2%)
・人口10万人あたりの公立図書館数(5.25館)
・普通教室LAN整備率(71.2%)
・配置薬の生産額(231億7,700万円)

●配置薬といえば、私が子供のころ富山の薬売りのおじさんが定期的に家にやってきたものだ。一年に一度だったか二度だったか、頻度は定かでないが富山から大垣(岐阜県)まで薬を売りにこられた。

●びっしり薬で詰まった柳行李(やなぎごうり)は重さが20キロにもなる。それを背負って毎日20~30キロの道のりを歩いてやってくる。
玄関先に腰かけて、我が家のくすり箱に品物を補充しながら情報も一緒に運んできてくれるありがたい存在だった。

●我が家の担当のおじさんは大柄で引き締まった体躯をしておられた。
日焼けした顔をニコッとさせ、しわがれた声で「ぼうや、これで遊んでね」と紙風船をくれる。
それを知っているから、薬売りのおじさんが来ると風船ほしさに母の近くをうろうろしたものだ。

●さて、富山駅からは小林さんが運転する車に乗り込んだ。

雪道を運転するのは慣れているとはいえ、助手席のこっちがハラハラするスピードで飛ばす。時々カーブでスリップするが、「大丈夫ですよ。雪国ではこうしてスリップを利用するんです」と余裕の様子。

●降り止まない雪のなか、我々がまず最初に向かったのは薬種商の館・金岡邸。
薬種商(やくしゅしょう)というのは、その昔、薬売りに薬の原料となる漢方薬を販売していた業者のこと。
今のように大手製薬メーカーが登場する以前は、富山に限らず薬売りは自分たちで漢方を独自に調合していろんな薬を作っていたのだ。

●そんな富山の薬が一気に有名になったのにはワケがある。

江戸時代初期の1639年に加賀藩・前田家から分藩した富山藩は当初から財政難に苦しんでいた。何としてでも加賀藩に依存しない経済基盤をつくろうと、利益率が高い売薬業に目をつけた。

富山藩第二代藩主の前田正甫のとき、大ヒット商品となる反魂丹(はんごんたん)が開発された。その直後、幸運なことに「江戸城腹痛事件」がおきた。

ある日のこと、江戸城で腹痛になった三春藩主の秋田輝季に前田正甫が反魂丹を服用させたところ、劇的に回復した。
それに驚いた諸国の大名たちが「うちの藩でもぜひ売って欲しい」と売薬の行商を懇請した。それ以来、富山の売薬は一気に全国ブランドになっていった。

●そんなエピソード紹介を交えて当時の薬種商のおもかげを残す建物が金岡邸である。
係の方にゆっくり邸内をご案内いただき、そろそろおいとましようとしていたら、館長の伊藤さんがあらわれた。
伊藤館長はこの金岡邸のほかにもうひとつ内山邸の館長もしているという。そちらは豪農の館で、見応えという点ではそちらの方があるかも知れないという。

さっそく館長直々の車誘導で我々は内山邸へ向かうことにした。外の雪はまだ降りやまず、歩行も車もスリップし放題だ。

<明日につづく>

★薬種商の館・金岡邸 http://kenminkaikan.com/kanaoka/page2.htm

★コバヤシ総合 http://kobasou.jp/