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諸行無常について

●「諸行無常、万物流転」を経営理念にしている会社に招かれて講演したことがある。
私たちは今の状態がずっと続くと錯覚しがちだが、諸行無常。つまり世の中のすべてのものが変化しているということを忘れてはならない。
それを社員にむかって実例をあげて講演してほしいと社長からのリクエストだった。

●そのときは、”これでもか” と沢山のビジネス事例を集めて講演にのぞんだ。
今日は、その講演では話さなかった「赤備え」(あかぞなえ)の諸行無常について書いてみようと思う。

●戦国時代、武士は鎧・兜(よろい・かぶと)などの具足に身を固め、戦場では、旗指物(はたさしもの)で敵味方を判断した。そうした具足や旗指物などを総称して「備え」とよんだ。

●黒や白や黄などの色で統一することで味方に一体感が生まれ、敵には威圧感をあたえることができた。
そうした中で、もっとも相手を驚かせたのは、甲斐の国・武田信玄率いる「赤備え軍団」であった。

●その当時、赤は高級品である朱漆の原料・辰砂(しんしゃ)で作られる色である。そんな高級品を身につけた武士が何百人も目の前に現れたらびっくりするだろう。いかにもかっこいいし、強そうだ。

もともと武田軍団は「赤備え」の威圧にたよらずとも、強かったらしいが、やがて「赤備え」は各地で相手から恐れられる存在になる。

●そんな武田の「赤備え」もついに敗れるときがくる。
織田信長率いる鉄砲部隊の前で「赤備え」は役にたたず、敵と接触するはるか手前でつぎつぎに倒されていった。

●武田家が滅亡してからは、徳川・四天王に数えられた井伊直政が赤備えを継承した。
井伊の「赤備え」は小牧・長久手の戦いの先鋒として大活躍し、やがて、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになる。

●大坂の役のころ、きらびやかなた井伊の「赤備え」をみて徳川家康が「いかにも鮮やかで平和な赤備えだ」と嘆いたという。
使い古され、どす黒く変色した本来の「赤備え」を身に付けている甲斐出身の家臣団をみて、「あれこそが本来の赤備え」と言ったという。

●「赤備え」はこうして武田から井伊へ継承されたが、時代が幕末にもなると、鎧や兜を着用して戦うことは不利になった。

1866年(慶応2年)の第二次長州征伐で、彦根藩の井伊直憲率いる「赤備え」が、長州藩のミニエー銃部隊と激突した。
「赤備え」に火縄銃という戦国時代のままの兵装で挑んだ彦根藩だが、川を渡ろうとした所を長州軍鉄砲隊に一斉射撃をうけ、一方的に敗れた。この時は夜間の戦いだったが、「赤備え」であったためにかえって、格好の的となってしまったのだ。

●いかがだろう。

「赤備え」ひとつとってみても、このように諸行無常である。
諸行無常とは、強みが弱みにかわることでもある。いつまでも「赤備え」に安住していてはならないのだ。

誰かにやっつけられる前に、自らが「赤備え」を陳腐化させるほどの新しい強みや売りものを開発しよう。それが企業の存続・発展の鍵をにぎる。