「お父さんが独身のころに流行ってた本はなに?」と息子。
「え、本か、そうだなぁ・・・」
長男も今月で27になった。仕事のことや人生のことなどについてこうした大人の会話ができるようになった。
(相変わらず酒は飲めないままだが・・)
以前はいくら説明しても理解されなかった。なので質問されることもなかった。相手にしても、理解しようとしても理解できなかったのだろう。そんなときは、あえて分かってもらおうとする必要はないし、相手のすべてを理解しようと努力する必要もない。家族と言えどもそうなのだから、友人や社員にいたっては理解不能はしごく当たり前のことだと思っている。
『失敗のしようがない華僑の起業ノート』の中にある注目記事を紹介してきているが、今日はその最終回。
「理解されないのは成長した証」という華僑の教えがある。社長として、自分の考えの全てを社員に分かってもらおうとする必要はないと書かれている。私も賛同する。さらに華僑はもっと積極的な意味で、周囲から理解されやすい社長ではダメだと説いている。常人では理解不能なほどのスケール感でものを考える人になれという意味だろう。
「修正は成長の証」というくだりもある。
目標や計画を修正するのは当たり前。周囲の状況が変わるわけだから目標も計画も軌道修正するのは当たり前というわけだ。
それに、社長が日々学習し進化するから、計画発表してもすぐに修正することになる。修正するたびに、「またですか」「もう変えませんよね」などと不満を言ったり、面倒くさそうな態度をとる社員は起業直後の会社には似合わない。たび重なる修正や変更に対しても平然とした顔で対応しつづけるのが起業組織でデキる社員なのである。修正や変更が嫌いなのであれば、巨大企業か官僚組織で働いてもらえばよい。
「呼ばれたら財布を持って走れ!」というメッセージも華僑らしい。
若いから貧乏なのはしようがない。起業直後であれば資金難も当然だ。それが現実なのだから貧乏であること自体は恥ずかしくない。ところが、貧乏なのと貧乏くさいこととは別である。貧乏くさいのは本人の萎えた性分なのであって、それは恥じねばならないのだ。
「貧乏なときこそ財布をもって食事会に駆けつけろ」と華僑は教えるそうだ。恩人から突然のお呼び出し。聞いてみると接待の宴席だという。呼びだされた若者は、とるものもとりあえず財布をもってすぐ走る。しかも食費は呼ばれた若者がすべて払う。
「そんな不条理な」と思える話だ。だが、「あいつは金もないのに自分のメンツを立てるために飯代を払った」というところを大人はよく見ているという。金があるからご馳走するのは当たり前。しかし、金に苦労しているときに払うからありがたみが倍にも三倍にもなる。もし、「いつもあいつは払わないな」「あいつは誘っても来ない」と思われてしまったら、次からは二度とメシに誘われることはなくなる。華人にとってメシ=仕事(お金)なのである。
このあたり、全面的に賛成しかねるところもある。金がないのに払わせるのは気の毒だという ”惻隠の情” が我々にはあるからだ。だが、そうした大人の惻隠の情に気づきもせず、平然とご馳走になってばかりいる人がいるのも事実。「ない袖はふれない」と開きなおってご馳走になっている人もいる。そうした人はご飯代は得しても、仕事でチャンスをもらうことに失敗している。
いつも自分ばかり払っているような感じがするぐらいでちょうどいい。