※文中敬称略。
●鹿児島県の「獅子島」で生まれ育った小久保三郎(仮、57才)は現在、名古屋で「株式会社小久保建機リース」(仮)の社長をしている。
先祖代々借金が大嫌いで小久保の会社も当然ながら無借金。不況で仕事が減った今でも中国から研修生を5人も受け入れるなど、余裕のあるところを見せている。
●そんな小久保が、ある会の二次会で私の前に座った。
「武沢さん、私もあなたに言われて【Wish List】を書き始めたところだが、絶対不可能な Wish は書いてはいかんのだろうか?」と聞く。
「ほぉ、絶対不可能なWish。たとえばどんなことですか」と私。
「死んだ親に会いたいんだ」と彼。
●事情を聞いてみるとこうだった。
「獅子島」の小久保家で8人兄弟の7番目(三男)として生まれた三郎は、県内の高校を卒業すると島から出るように親に言われた。
両親は農家。借金もないし、長男が残ってくれればあとはちゃんとやってゆけるから、とにかくウチのことは何一つ心配せずに町へ行け、と言われた。
●三郎少年は一番やんちゃ者で、親からいつも目をかけられてきた。
そんな三郎が家からいなくなるのは親としてもさみしい事だったろう。
涙ぐんで港まで見送りにきてくれた両親の前で三郎は言った。
「一旗あげて、きっと帰ってくるから」
すると母は気丈に「帰ってきても寝るとこがない。帰ってこんでええ。電話だけすりゃ」と言った。
●あれから約20年。結婚式のとき以外は一度も会わなかった。
電話やハガキで連絡するが、三郎も会社を興すなどの忙しさにかまけて一度も島へ帰らずに時だけが過ぎさっていった。
「チチシス イチド カエレ」の電報を受けとったのは三郎が40才の時だった。
父は胃がんでなくなっていた。通夜の席で再会した母は75才になっていた。ひどく痩せていたので健康を気づかったら母もがんにおかされいると聞かされた。
●通夜の夜、親父の棺の前で三郎は悔いた。
「おやじ、申し訳ない。オレはこの20年間なにひとつ息子らしいことをしてこなかった。せめて、母には何か恩返ししたい」と父の前で誓った。
●三郎は、島を発つとき母を旅行に誘ってみた。
昔から「京都へ行ってみたい」というのが母の口ぐせだったことを思いだしたからだ。
このとき、母はめずらしく三郎の提案をすんなり受け入れ、翌月親子で京都旅行をした。
●互いに募る思いはたくさんあるのだが、会話が進まないまま清水寺まで来た。
二年坂の売店へ立ちよった二人。母は何か土産ものを物色しようとしたのだろうか、清水焼の前で立ち止まった。
●三郎はその様子を見ながら、「ちょっとオレ、トイレ行ってくるわ」と母に声をかけた。
数分後、トイレから戻って店内を見渡すと、母はさっきと同じ場所で、同じ茶碗を手にしていた。
「あ、母はこの茶碗がほしいんだ」と思い、三郎はさりげなく母の横に立って値札を見たら『1万円』と書いてあった。
●当時、仕事がうまくいかず財政的に苦しかった三郎は、その1万円が出せなかった。母と京都に来ることが精一杯だった。
だから、三郎は茶碗を見ないふりをした。
そして明るく声をふりしぼって、「あ、そうそう、おふくろ。京都名物は何といっても漬け物だよ」と言った。
母も敏感になにかを感じたのだろうか、その茶碗を大切そうに元に戻し、漬け物の売場へ移動してくれた。
●その翌年、母は帰らぬ人になった。
三郎は今でもその時、母に茶碗を買ってやれなかった自分が不甲斐なく、母に対して申し訳ないことをしたという気持ちがぬぐいされない。
もう57才になるのに、あんな中途半端な京都旅行なら招待しない方が良かったのかも知れない、とまで自分を責めることがある。
●「武沢さん、だからオレのWish Listに『もう一度母を京都に連れて行って茶碗をプレゼントする』というのがあるのだが、これって間違ってるだろうか」と小久保社長。
●私はしばらく声がでなかったが、気をとりなおし、こう申し上げた。
「いや、そういう Wish は大なり小なり僕にもあるし、それを書いておくことは全然間違ってないと思いますよ。それに、そのWishだって絶対に達成不可能だとは思わない」
すぐにでもその茶碗を探してきてくださいよ。
そして母の位牌か墓石にプレゼントしましょうよ。それが無理なら、自分が旅立つときにその焼き物をプレゼント用に持参しても良い。
だから絶対不可能なリストなんてないと思う、と小久保社長に申し上げた。
小久保社長はその時、「ありがとう」とだけ言ってあとは黙っていた。