●「名古屋まで行くので夕食に付き合ってほしい」とS社長から連絡がはいった。わざわざ大阪から会いにこられるとは並々ならぬ事態か。
●さっそく名古屋オフィスで合流し、ひいきにしている中華店に向かった。
とりあえずビールで乾杯。次々に運ばれる料理を平らげながら、紹興酒を一本空け、「もう一本」とお代わりした。そのあたりから、彼はようやく本題に入った。
「武沢さん、オレ悔しいよ」という。
事情を聞くと、「期待していた社員が2月末日で辞めた」という。
●「なんだ、そんなこと。それだけのために大阪から新幹線で・・・」と、口から出そうになったが次の言葉を待った。
すると、こんな話を聞かせてくれた。
・・・
●S社長は創業社長で今年45才になる。大手出版社からスピンアウトし、10年前に今の会社「株式会社バイオウォーター」(仮)を作った。
健康ブームや環境ブームを狙ったわけではなく、S社長自身と彼の長女がバイオウォーターという特殊な水を飲んだおかげでアトピーが治った経験がある。「これを世に広めたい」と思い大阪市内で起業した。
仕事が軌道に乗り始めた数年前、正社員第一号の「W」が入社した。
彼女のおかげで組織と仕組みができはじめた。
●その後も社員が少しずつ増え、今では10人程度の規模になった。
売上は順調に伸びているが、利益率が低く毎年少しずつ赤字を出してきた。
そんな中、「W」は今年まだ27才と若いが着実に力をつけ、S社長の右腕のような存在になっていった。
仕事はできるし優しい心配りもできた。女優の真矢みきをほうふつとさせる美貌と愛嬌があり、社内のムードメーカーでもあった。
●そんな「W」がまさかの辞表を提出したのだ。
それはS社長にとって晴天のへきれきであり、言葉を失った。
ふるえる声、ひきつる顔で理由を聞いてみた。
すると、最初のうちは「婚活に専念したいから」とか「母が健康を害しているので」とかプライベートの問題を言っていたが、どうも様子がおかしい。
なにか隠している様子だ。
●S社長は「W」を焼き肉に誘いだし、本音を知ろうとした。
やがて「W」は重い口を開きはじめた。
そして、彼女からはき出される言葉の数々は、S社長のショックに追い打ちをかけるものになっていった。
●「わたし、S社長のことは尊敬していますし、大好きです。特に環境問題や日本人の健康を思うひたむきさには、毎回心を打たれます。だから私もその姿勢を見習ってがんばって来られました。そのことには今もとても感謝しています。事情が許せば、辞めたくありません。ただ、・・・」
うつむいてしまった。
●「ただ・・、そのあとは何だい?」
「ただ、S社長の経営は好きでありません」
「えっ?ぼくの経営が好きでない?」
「はい、素朴に言うなら、何かおかしいと思います。最近はずっと社員の昇給はストップしたままです。新入社員の給料と私の給料はほとんど変わりません。ボーナスも去年一年で10万円ぐらいしか出ませでした」
「そのことかぁ。それは説明済みだろう、今ごろ何を言ってるんだ。君の立場なら分かってくれていると思ってた。景気がこれだけ悪くなればうちの業績も悪くなる。だから給料やボーナスが払えないことぐらい分かってくれているんじゃないのか」
「はい、もちろん分かっています。決算書も見せていただいてますし」
「だったらそんな事ぐらいで辞める必要はないだろう」
「そんな事ってどんなことですか?そこがおかしいと思うんです。社長は、社員の犠牲に甘えていらっしゃる」
「・・・」
「世間が悪いからうちも悪いというのはいかにも当たり前です。私がS社長のもとで働こうと思ったのは、当たり前ではないことに挑戦する方だと思えたからです。一時的にボーナスや昇給がないのは我慢できますが、明るい希望がずっともてないのには我慢できないのです」
「いつだって将来の夢を語ってきたじゃないか」
「その『夢』というのは社長ご自身の『水』や『健康』に対するこだわりのことですよね。それなら私もそのこだわりを共有しているつもりですが、それだけが私の夢ではありません」
「どういうこと?」
「ずっと内緒にしていましたが、私、両親のお店に毎月お金を入れています」
「え?」
「両親は実家で小さいおすし屋をやっているのですが、最近売上が激減していて、2年前から私と姉とで毎月幾らからずつ親のローン支払いを負担しているのです。それが最近になって、もう少し増額してくれって言われて、それが出来ずに悩んできました」
「・・・そうだったのかあ。言ってくれればよかったのに」
「個人の事情を考慮していただくのは気が引けますから言わないつもりでした」
・・・・
●「結局、2月末日付けで彼女は本当にいなくなっちゃった。武沢さん、正直言ってすごく悔しい。できるものなら『W』を取り戻したい」
こんなとき、私は何を申し上げてよいのやらまことに困る。
とりあえず出たのはこんな言葉だった。
「これが『Wの悲劇』ですね」
「え、なんですか、それは」
「あ、いえ、独り言です。それにしても高い授業料を払いましたね。しかしS社長、過ぎ去ったことをいつまでも悔やんでないで今回の教訓と、今後どうすべきかを整理しておきましょうよ」
「今回の原因はだいたい分かっています。それは、自分のコミュニケーション力の欠如にあったと思うのです。もっとひんぱんに彼女と会話し、隠された家庭の事情も知っていれば良かったと思います」
●私はS社長の考えは50点だと申し上げた。
いくらコミュニケーションが良くて、社員の家庭事情を知っていたとしても、現実問題として業績を回復させ、昇給や賞与を支払うことができるようにする結果責任がトップにある。
●S社長は、社員に向かって説明責任は果たしてきた。
それで社員も納得してくれたと思っていたが、実はそれは弁解をしたに過ぎない。
説明責任だけでなく、結果責任を果たしていくための具体的青写真を社員は期待しているのだ。
「社長は好きだが、社長の経営は好きじゃない」
という社員が身近にいるかもしれないことを忘れずにいよう。