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青べか日記

●小学校で、作文が宿題になった。

清水三十六(しみず さとむ)は級友のA君と楽しく遊んだことを活き活きとした文で表現した。
作文を提出した翌朝、優秀作品としてさとむの作文は教室後方に掲示された。
そうとは知らずに学校に着いたさとむは、朝からクラスが騒然としているのに驚く。どうやら自分がその当事者らしい。

●「こんなのウソだ。僕はさとむ君と遊んでなんかいない」とA君が騒ぎ出し、それにつられて他の級友もさとむに詰め寄ってきた。

たしかにそれは、さとむが空想で書いた作文であり事実ではなかった。
「ウソつき」と言われても、級友の前で何も言いひらきができない。

追いこまれたさとむ。

●そこへ騒ぎを聞いた担任の先生がやってきた。

「先生、さとむの作文は全部ウソです」とA君。

すると、先生は間髪入れずにこう言った。

「そうだったのかさとむ。しかし、こうも見事にウソが書けるとは素晴らしい。お前は将来小説家になれ」

●その10数年後、さとむは小説家としてデビューし、後に文壇を代表する作家になる。彼のペンネームは「山本周五郎」(1903年-1967年)。

「樅ノ木は残った」「赤ひげ診療譚」「青べか物語」「さぶ」などの代表作を持つ時代小説家だ。

彼は直木賞や毎日出版文化賞、文藝春秋読者賞など数々の賞を辞退するなど、「曲軒」(きょっけん)のあだ名にふさわしい孤高の存在でもあった。(素直に受け取った賞もあるが)

●尋常小学校を卒業し、山梨から東京(木挽町)に住み込みの徒弟として質店に入る。その店の屋号が「山本周五郎商店」だった。

その後、帝国興信所(現・帝国データバンク)に入社するも勤務不良で解雇にあう。それがプロの小説家デビューのきっかになるわけだが、それだけの素養は小学校の作文のときからすでに持ち合わせていたと言えよう。

●だが、子供の作文と筆一本で生活する職業小説家との力のギャップは容易に埋められるものではない。
そんな苦労がにじみ出ている若き山本周五郎の日記が本になっている。

周五郎ファンはもちろん、小説家の舞台裏に興味がある人にもおすすめの本だ。
作家として押しも押されもしない存在になる以前の「さとむ」時代の日記には、今の起業家や経営者にも共感をよぶような葛藤の箇所が随所にある。

●日記の中からいくつかおもしろい記述を拾ってみた。

・・・今日は寝呆けた。それで社を休んだ。為事(しごと)をした。
小説「ごすたん」に就いて十五枚書いた。うまく行くだろう。・・・

・・・今日はまた胃の具合が悪い。田沼意次(小説の題材)には直ぐにもかかれるが原稿用紙がない。情けないことだ。・・・

・・・昨日は婦(おんな)を買った。せきはまだ止まぬ。家を変えねばならぬ。東京へ帰ろう。小説「裸婦」にかかるだろう。・・・

・・・「田沼」二枚書き出した。うまくゆかぬ、東京へ帰ってからだ。
早く東京へ帰ろう。そして為事だ、為事だ。さあ来い、さとむはなかなかくじけはしないぞ、見ろ。明日の日に栄えあれ。・・・

・・・今日は「田沼」に就いて八枚書いた。比較的良い出来であった。
えらいぞ、さとむ。・・・

・・・午後から釣りをしたが一尾も釣れなかった。怠ける罰だろう。
憂鬱である。しっかりしろ三十六、貴様は挫けるのか、世間の奴等に万歳を叫ばしたいのか、大きな嘘吐きとして嘲笑されたいのか、元気を出せ、貴様は選ばれた男だぞ、忘れるな、いいか、起て、起てそしてしっかりとその両の足で立ち上がって困苦や窮乏を迎えろ、貴様にはその力があるぞ。あるんだぞ、忘れるな、自分を尊べ大事にしろ。
そして、さあ、笑え、腹の中から声を出して笑え。・・・

・・・亡母の三年忌で弟と郷に帰って来た。
余は、勤先からの通知で職を逐(お)われた。大きな打撃で少し参った。独りで寝ることが辛かったので、海端の紅燈家を訪って、婦と寝た。いよいよ背水の陣か?呵々。・・・

・・・ばか、ばか、ばか、恥を知れ。・・・

・・・今日博文館を訪ねた、予の原稿は退けられた。予は職を失って四月、いよいよ金に窮し、蔵書を売却して新しく踏み出さねばならぬ。
今こそ、予に残っているものは唯一つ、”創作の歓び”だけだ。・・・

・・・金が全く無くなった。「浦島」改造へ送った。どうなることやら。悪くたって己は決して気を落としはしないが、なるべくなら金になってくれ。・・・

・・・五百円ばかり入った。心は平安である。わずかな金が入った為に、こうも心持ちが違うかと思うと笑止になる。寝よう。・・・

・・・私にはすでに売るべき本もない。木挽町ではむろん金を貸さない。そして私自身は金にならぬ原稿を書いている。自分の為事の価値を疑ってみるには、私はあまりに真剣な為事をしている。
金が欲しい 食えるだけの金がほしい。・・・

・・・貧乏しても 出世していく友に後れても 本当の為事を こつこつとやっている。・・・

●ああ、20代のさとむは、今の私とまったく一緒だと分かった。
その分、さとむ君より長生きすればいいんだ。

★山本周五郎『小説の効用・青べか日記』 (光文社知恵の森文庫)
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