●「社長、リハーサルが終わりました。最終チェックをお願いしてよろしいですか」と人事課長の松坂が言った。
「うん、わかった。ところで、今年御神酒(おみき)を注ぐ役は誰だい?」と平井社長。
「はい、今年は経理部の小林君です」
「あ、彼女ね。適任だね、アッハッハハハハ」
●この会社の入社式では、一年先輩の女性社員が新入社員代表の男女一名と平井社長とに御神酒を注ぐ。
注がれた新人二人が代表して決意表明文を読み上げ、社長と一緒に杯を乾して社員のちぎりを交わすのが入社式のハイライトだった。
●平井社長は常日頃から、「セレモニーは流れるように進んでいかなければならない。何かで滞るようなことがあったとしたら、それは運営者の事前準備の怠慢だ」が口ぐせだった。
●だから明日にせまった新入社員の入社式もよどみなく流れるように準備するのが人事課長の松坂の仕事。この日の準備も万端のはずだった。ところが・・・。
●経理部の小林社員が御神酒を注ぐのは空っぽの容器でリハーサルしていた。実際に御神酒や水をいれてのリハーサルをしていなかった。
そこまでは練習の必要がないだろうとたかをくくっていたのだった。
「空っぽの容器ではなく、実際に水を入れて練習しなさい」と平井社長に言われ、やってみた。
小林社員は、容器をどの程度傾ければ御神酒(水)がでるのか、分からなかった。
●5度、10度、15度、20度、30度、40度とすこしずつ傾けていくが、全然出てこない。
小林社員の表情がすこし引きつったようになり、首をかしげ、角度をきつくしたその瞬間、フタが外れて床に落ちた。
その一部始終をみていた松坂は、全身の血の気が引いた。この珍事が本番でおきていたら大失態になるところだった。
●「松坂君、いったいどこが”リハーサル完了”なんだね!」と言う平井社長の声には怒気が帯びられていた。
「申し訳ありません、細部まで気が回りませんでした」と松坂は詫びた。
それよりも、小林社員が済まなさそうに小さくなっているのが気の毒だった。これが前日のことでよかった。本番でこんなことをさせたら小林社員が一番傷つくところだった。
今後、いつもリハーサルや準備は本番と同じことをしなければならないと誓った松坂。
●「重箱の隅を突っつく」と言う場合、それは細部にこだわりすぎて大きな目的を見失うことを戒めるのだが、計画やリハーサルというものは、「重箱をとことん突っついておかねばならない」とも思った。
●このショッキングな出来事があってからの松坂は、平井社長に負けないくらい細かくチェックするのが性分になっていった。
それが彼の新しい性格の一部分となったようだ。
●社長とは会社の中の隅から隅までつっつける人がやるものらしい。
ただし、実際に突っつく役目は松坂課長のような部下に任せていきたいものだ。