<先週の続き>
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●東京ディズニーリゾートの年間来場者数が約2,500万人。
基本的に定休日はないので、365日で割ると一日平均68,500人が訪れることになる。プロ野球の球場がほぼ4万人で満員なので、その1.5倍のお客が毎日やってくるわけだからその数や恐るべし。
●「どげぇんかせんといかん!」と宮崎のために「とうりょうさん」達が計画した夢のリゾート施設「シーガイア」。
計画段階では、ディズニーリゾートのほぼ10分の一にあたる年間250万人(一日平均7千人弱)を集める計画をたてた。
●それは決して不可能な目標ではなかったはずだ。
なぜなら、地上42階・地下3階の巨大ホテル、プロゴルファー・トムワトソンが設計したゴルフ場、それに集客の目玉・巨大な開閉式屋根を持つ室内プール「オーシャンドーム」があったから。
さらにはホテルに隣接された世界規模の国際会議場や、シャトルバスでわずか数分で名門・フェニックスカントリークラブがある。
●「宮崎はすごいことになるぞ!」
関係者は計画段階で夢がどんどん膨らんでいった。
バブル絶頂期の資材高騰時に計画されたせいもあり、ついに総事業費は2,000億円を超える規模となった。一番最初の構想では、680億円規模だったことを思うと、3倍にもふくれあがったことになる。
今思えば、この「計画の膨張」に問題があったと言える。
●得られた利益を拡大再生産するのが大原則なのだが、お客さえ計画通りに集まればすぐに回収できる投資だと関係者は信じていたことだろう。
●そして遂にシーガイアは1994年にグランドオープンすることになる。
地元の期待も集まったが、宮崎県民の多くは、「入場料(4200円)が高すぎる」「うまくいくはずがない」と思っている人も多かった。
●ついに、250万人という動員計画は一度も達成されることはなかった。
開業翌年の124万人をピークに99年度は78万人にまで落ち込んだ。
収入目標は一度も達成されることなく、黒字になることもなく99年末に累積赤字が1,115億を突破した。ついにメインバンクの第一勧銀が手を引いた。
盟友松形県知事は「政治生命を賭け、シーガイアの再生に全力で取り組みます」と血税をシーガイアに投入した。
●「とうりょうさん」は松形知事以上に人生を賭けた大勝負になっていた。
大成功していた大阪の紙パルプ商社もフェニックスのゴルフ場もホテルもすべて担保に入れていた。もう後戻りできない。この事業に失敗したら帰るところがどこにもないのだ。
●そして2001年、あえなく会社更生法申請。
会見場で松形知事は、殺到するマスコミ質問に不快感をあらわにしながら、
「私どもに責任はひとつもない。これは再建であって倒産ではなく、新しいスタートだ」と自身の責任論をつっぱねた。
●だが「とうりょうさん」は同じ会場で県民に謝罪した。
「シーガイアの施設と従業員は、宮崎県の誇り。私の82年の人生で一番の誇りだった」と再建経営から身を引く発言をした。
そして「県民や銀行、取引先に多大なる迷惑をおかけした」と深々と頭を下げた。かつての強気と自信に満ちた「とうりょうさん」の姿はどこにもなかった。
●最終的には、借入金の約2,600億円とあわせ、3,261億円の負債を抱え会社更生法を申請。
その後アメリカの投資会社リップルウッド・ホールディング社が投資額の1割にも満たない162億円で買収。県民の財産であったシーガイアは、外資の手に渡った。
●二人三脚でシーガイアを引っ張ってきた「とうりょうさん」と松形知事は、その後の人生でさらに明暗を分ける。
松形知事は2003年7月、85歳で知事の任期を全うし、翌2004年には勲一等旭日大綬章の叙勲を受けた。2007年8月没。
松形知事の後を追うように、2007年9月30日にオーシャンドームが閉館した。
●だが今年90才になられる「とうりょうさん」は、すべてを失った。
自分が作ったシーガイアの施設内でひっそりと余生を送られていると聞く。
●「シーガイアに行って下さい。ところで最近の宮崎はどうですか?」とこのGWに聞いてみた。
タクシーの運転手は、「県知事のおかげで観光客がドッと押し寄せてます」と上機嫌だった。
「とうりょうさん」の計画破綻から6年、新しい県知事のタレント人気で観光客が押し寄せるとは皮肉なものでもある。