ある会社の合宿に呼ばれた。
役員数名が週末を利用して保養所に集まり、あえてジャージを着て過ごす。初日は現実的な問題解決の話し合いをトコトン行い、二日目は役員ひとりひとりの第二の職業人生を話し合う。
・45才までにベトナムで広告代理店を開業するというA専務。
・上海でデザイン事務所を開設したいというB常務。
・陶芸家になるというC取締役。
・大好きなニュージーランドに住みながらケータイ小説家をやるというD取締役。
みんな若いからこんなことも可能だ。
もちろん今の会社をより良くすることが前提条件となっているが、まとまった退職金と持ち株売却代金を手に、新しい人生を始める経営陣がたくさんいる会社って新しい。
福澤諭吉は、一生を貫く仕事をもつことが世の中で一番楽しくて立派なことだと語っている。
一生を貫く仕事とは、文字通り仕事が一つという意味ではないはず。
一生を貫くテーマをもつことが大切なのだと思う。
理想の会社をめざし、理想の仕事ぶりを追求し、理想のライフスタイルを目指してチャレンジし続けよう。そうした生き方を許容する会社、いや、それを促進しようとする会社でありたいものだ。
実際、どこにあなたの天職があるか分からない。何歳でそれに気づくかも分からない。
日本映画界の巨匠・黒澤明氏も、映画監督になろうと思っていた人ではない。画家を目指していたのだ。
必要に迫られて画家をあきらめ、「何か仕事はないか?」と、新聞を見ていたら映画会社の求人募集広告が目にとまった。応募したところ、偶然にも受かってしまったのだ。
しかも、撮影所へ行ってみると(ドーランで)顔を白く塗った変な人がたくさんいて、「気持ち悪い」と思った黒澤。
父親の勇氏に「辞めたい」と相談したところ、「辞めるのはいつでもできるから、まあ、ちょっとやってみたら」と言われ、辛抱して続けているうちに、徐々に映画の世界が楽しくなっていったという。
どこかでスイッチが入ったのだろう。7年後(33才)、「姿三四郎」をものにした。
松本清張だってそうだ。
氏は戦後間もないころ、北九州の小倉に住みながら朝日新聞西部本社の広告部につとめていた。
そんな昭和24年のある日、『週刊朝日』が「百万人の小説」募集を発表した。小説を読むのは好きだったが書いたことはなかった松本清張。
だれかが特選の30万円を獲得するのかと思うとうらやましく思った。
しかし、まだこの時点で彼には応募する意思が、さらさらない。
ちなみに昭和24年の物価は、週刊誌15円、公立高校授業料3,000円、トンカツ100円、コーヒー20円、都バス1区間10円。
物価がどんどん上がっていくインフレ時代だ。生活が苦しかった。
そのころの懸賞賞金30万円は、今の500万円程度か。
賞金はほしかった松本。
とにもかくにも、書く気がなかった松本清張がふとしたことをきっかけに「書いてみよう」と思うに至る。
それはある日、何げなく冨山房の百科事典をひろげていたときの事、「さいごうさつ」という項目が彼の目に飛び込んできた。
「西郷札(さいごうさつ)」とは、明治初期の西南の役で西郷軍が発行した軍票のこと。この軍票の存在とそれをとりまく人間ドラマが松本の執筆意欲を刺激した。
「面白い筋になりそうだ」
と思った松本は、仕事の合間に資料室にこもって西郷札に関係する資料を読みふけり、要点をメモし、ついにあらすじをまとめた。
だがコンクールの期限はすでに二ヶ月後に迫っていた。まだ一文字も書けていない。
原稿用紙が高価な時代。今の作家のように書いては破り、書いては捨て、などと豪勢なことはできない。
紙質の悪いノートに鉛筆で下書きし、別のノートで書き直し、推敲し、最後に原稿用紙にペンで清書した。
書けるのは夜しかない。奥さんと子供5人が眠る蚊帳のなかは狭くて蒸し暑い。蚊帳の外で書く。
うちわを片手に蚊を追いやりながら書く。万年筆は高価で買えないので、インクボトルにペン先を浸けながら書く。
どんどん締切が近づいてくる。おまけに原稿の制限枚数も近づいてくる。だが、松本の小説に結末はやってこない。
「どうしよう、結末がない・・・」
結局、松本は結末を書かず、読み手の想像に任せるというスタイルをとることにした。芥川作品などに、そうした小説がなくもない。
結局、この小説「西郷札」が入選し、賞金10万円(今の150万円くらい)を手にした松本。時に 清張40才。
両親を含めて妻子8人暮らしの大黒柱として、筆一本で生計を立てる決心をした。
松本は晩年になってもこの当時の記憶が鮮明のようで、そのころの様子が氏の随筆『実感的人生論』に詳しいのでご興味のある方はどうぞ。
実感的人生論
「文豪になる」と、私も冒頭の役員合宿で発表させられたが・・・。